資本人材の資本利潤

資本人材の資本利潤

森本紀行
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資本人材というのは、平たくいえば、自立した人間のことで、自分で考え、工夫し、上司から指示される前に適切に行動できるような企業内人材のことかと思います。このような資本人材の創造的働きこそが企業の成長を支えるのですから、まさに、人的資本投資の理論の中核概念ですね。
 
 私の資本人材と債務人材の区別は、実は、前近代的な雇用関係にも通じるものです。もちろん、比較するのも適当でないほどに、異質なものなのですが、報酬の前払いというところに、一脈通じるものがあるのです。
 この古い雇用関係というのは、前借りと称する報酬の先渡しによって被雇者の自由を奪うもので、事実上の強制のもとでの人身拘束的な労働形態ですから、人身売買的な匂いすら感じられます。
 働かされている当人は、最低限の衣食住を賄われていても、報酬は貰えない。貰えないというよりも、前借りという債務の弁済に報酬相当分が充当されているといったほうが正確でしょう。債務を労働によって完済するまでは、自由がないのですが、逆に、完済した後は、職業選択と労働の自由を回復できるのです。こうした雇用形態を年季奉公と呼ぶなら、債務の完済が、いわゆる年季明けです。
 さて、現代の企業の報酬制度というのは、実績に応じて事後的に支払うというような、いわば出来高払いのようなものではありません。報酬は事前に定めるものですから、どうしても報酬のなかには、実際の貢献への期待という要素が含まれます。期待には、人材の成長への期待を含むわけですから、期待への報酬は、将来において成長した人材が実現する成果に対する先払い報酬としての意味合いをもつことになります。
 一番わかりやすいのが、大学新卒者に対する初任給です。まさか、どの企業も、初任給相当の貢献など、期待してはいないでしょう。業務の内容にもよるでしょうが、最低でも当初の数年間をかけて、職務に習熟してくるにつれて、報酬と実績とが一致してくるという想定になっているはずです。しかも、実績が期待に追いついていない間でも、昇給を先行させている場合が多いと思われます。期待を引上げることが、実績が追い付いてくる、即ち人材が成長してくることへの誘因として働くことも想定されているからでしょう。
 報酬と実績とが一致する時点までの期間を考えますと、その間は、報酬が実績を上回っているのですから、企業の立場からすれば、その差の累積額を、先払いの報酬として、将来の貢献によって弁済してもらわないと困るわけです。
 実際、古典日本的な報酬体系(安定経済成長期に移行した昭和50年代までに広く定着するようになった人事制度)では、大学新卒で入社した当初は、昇給速度が貢献の成長速度を上回っているのですが、その後、成長が加速してきて、報酬と貢献が均衡した後では、今度は、貢献の成長速度よりも昇給を遅らせるように設計されていた、つまり、貢献を下回る報酬によって、それに先行する先払い報酬を回収するように工夫されていたのです。ゆえに、報酬と貢献が均衡した後の一定期間後には、先払い報酬は完済されるはずだったのです。
 私の資本人材と債務人材の定義では、この債務を完済する前の人材を債務人材、債務を完済した後(喩えていえば、年季明けした後)の人材を資本人材としています。この区分は、古典日本的な仕組みと関係なく、報酬に期待要素が含まれる限りは、どのような報酬体系でも有効なものと思われます。
 

資本人材になるまでの期間については、相当に大きな個人差がありそうですね。
 
 若くして資本人材になる人もいれば、定年退職まで債務人材で終わる人もいます。また、職務内容によって、早く習熟して資本人材になれる場合もあり、難易度が高くて時間を要する場合もあります。このような大きな個人や職務内容の差に十分に対応できなくなったことが、古典日本型の報酬体系が崩れ去る最大の要因でしょう。
 定年まで債務人材で終わるということは、企業の立場からいえば、先払い報酬を回収できずに終わるということですから、これはもう、人材の不良債権化です。この人材の不良債権化は、旧来の人事制度では、組織のゆとりのなかで、各人毎に能力や適性に合う職務や職位を見つける(あるいは作る)ことにより、回避されてきたのですが、時代も平成になれば、組織全体の拡張がなくなり、逆に縮小すら始まるわけですから、到底対応できなくなります。
 そして、「リストラ」と呼ばれる現象が始まり、程度の差こそあれ、何がしか成果主義的な要素を取り入れた人事制度改革が始まるのです。改革には、負債人材から脱却できない人への対応という負の側面と、早期に資本人材化してくる人、即ち企業の成長を支える中核人材への対応という正の側面があります。今回問題にしたいのは、後者の前向きな課題です。
 

企業の成長戦略においては、資本人材をいかに登用し、いかに処遇するかが決め手になる、それを金融的な喩えで、資本人材の資本利潤をいかに高めるかと表現しているわけですね。
 
 伝統的な日本の制度では、資本人材の処遇は、再び債務人材化することによってなされてきたのだと思われます。つまり、登用と昇格によって、大きく昇給させることで処遇してきたのです。そして、幹部を選抜して登用する昇格の仕組みによって、資本人材の力を引き出してきたのです。
 資本人材は、昇格して昇給することで、報酬のなかに改めて大きな期待要素が取り込まれることを通じて、再び債務人材となりますが、極めて短い時間のうちに期待に見合った成果を生むことで、再び資本人材になる。そうすると、また再び次の大きな期待のもとに債務人材となりますが、その期待の圧力を跳ね返して資本人材に戻り、そして、さらに大きな期待のもとに、債務人材になる。人材の成長経路は、このような資本人材と債務人材との往復を通じて形成されていたのです。
 幹部候補生は、最低限の年数で、課長、次長、部長と昇格し、しかも枢要な部門を短い年数で転々として経験を豊かにし、最後は役員に昇格する。階段を一つ上がることのできた人は急速に昇給していくのですが、階段を上がれなかった人は出世街道から外れるわけで、最終的に役員まで上り詰める人は極々少数というわけですから、それなりに厳しい仕組みではあったのです。
 ところが、ここには、大きな問題が二つあったのです。第一に、出世街道から外れた資本人材の処遇と活用をどうするのか。第二に、このような登用の仕組みで育った経営陣のもとで、改革、変革、革新、新規創造、挑戦などという現代の経営に強く求められている課題に対処できるのか。
 第一の問題については、従来は、大きな組織のゆとりのなかで、子会社等への転籍など、様々な方法で対応できたのですが、現在では、それこそ「リストラ」も含めて、難しい対応をしなければならなくなっています。他方で、第二の問題を考えると、従来の組織や事業のあり方を前提にし、それを肯定的に強化する方向性での人材登用がなされてきた結果として、変革対応力を弱めた可能性を否定できないとしたら、改革の方向は、従来登用されてこなかった人材、出世街道を外れた(というよりも、出世街道から外された)人材のなかにあるのではないのか。だとすると、この二つの問題は、実は一つです。
 

資本人材に固有の処遇を考え直すことが重要なのですね。
 
 債務人材的処遇というのは、企業の人材への期待に基づくものであり、その期待とは、あくまでも現経営陣の立場からのものにすぎないのですから、そのようにして登用される幹部候補生によっては、現組織の再生産になるだけで、そこから変革が生まれにくいのは、理の当然というほかないと思われます。
 故に、私は、資本人材を再び債務人材にする処遇と報酬の仕組みを廃止すべきだと考えました。ひとたび資本人材になれば、その先は、資本人材としての固有の処遇の仕組みを考えるべきだということです。つまり、組織の立場からする選抜と登用、および組織の期待に基づく報酬は、債務人材に留まる人に限定し、資本人材化した人には適用しないということです。
 念のためにいいますが、このように二種類の人材と処遇体系を考えることは、英米流のオフィサー officer とクラーク clerk、日本の官僚機構のキャリアとノンキャリなどのように、採用段階から人材を峻別する階級社会的な仕組みとは異なります。同一基準で採用された人材のなかから、公正公平な実績評価に基づいて、人材を分化させているだけなのですから。
 

では、資本人材の処遇とは、どのようなものであるべきでしょうか。
 
 まずは、資本人材の定義を明確にしておきましょう。なぜなら、資本人材には、私の先の定義だけでは、非常に広い範囲の人材が含まれてしまうからです。
 資本人材というのは、過去の勤続期間を通じて期待と実績の累積値が一致している人のことですから、現職務を継続する限り、将来においても、報酬通りの実績を高い蓋然性で期待できる人材というにすぎません。
 この期待通りの実績、報酬通りの貢献ということは、単純作業においても、難易度が高くて経験を要する専門的職務においても、職務の内容とは関係なく成り立ちます。いわゆる「仕事」に対する報酬という考え方が適合しているのです。この場合、「仕事」が、単純作業であろうが、専門分野であろうが、客観的に定義できるほど、報酬と貢献の関係が明瞭になります。
 さて、このような「仕事」については、外部の企業等への委託や委任、外部の企業からの派遣等によって代替できるものも少なくありません。「仕事」としての客観的独立性が強くなればなるほど、外部化の余地が大きくなるのは当然だと思われます。この類型の資本人材については、その報酬を外部費用化できる可能性があるという意味で、費用人材と呼んでもいいでしょう。
 いうまでもなく、企業の成長戦略にとって重要なのは、費用人材ではない狭義の資本人材です。費用人材は、いかに希少な高度な専門性をもつ人でも、その能力が一般性をもつ限り、企業固有の付加価値創造にとっては、高級な費用人材として必要な要素にすぎず、組織における創造の原動力としての資本人材にはなり得ないと考えられます。また、単純作業従事の人材が、いかに必要な人材ではあっても、企業の競争力の源泉たり得ないことは論を待ちません。
 なお、専門職型費用人材については、伝統的な債務人材型の人事制度のなかでは十分に評価されてこなかったのですが、人事制度改革の流れのなかで、新たに専門職としての資格制度を導入して、昇格ではない処遇のあり方が普及してきたことは、周知のとおりですし、また、単純作業型の費用人材については、いわゆる「リストラ」等を通じて、派遣等の非正規雇用へ一気に傾いてきたことも、改めていうまでもないでしょう。
 ここで、改めて処遇の仕組みを検討しなければならないのは、企業の成長戦略にとって重要な資本人材です。それは、第一に、組織を動かす経営人材、第二に、高度な専門的技能と経験を備えた人材のうち、その専門技能を活かして企業固有の付加価値の創造へと積極的に動く(あるいは、第一の経営人材により、組織のなかで、巧みに動かされる)人材、この二種類であろうと思われます。
 結論を先にいえば、このような資本人材の処遇の中核として私が構想したのは、環境という概念です。また、今、処遇という言葉を使いましたが、報酬と処遇という言葉を峻別する(これまでは、厳格に区別していませんが)ことにもしました。
 人を処遇するとは、単に金銭的報酬を与えることだけではなく、企業がもっている全ての有形無形の資産を提供することです。資本人材とは、それらの資産を有効に活用することで、組織のなかに新しい価値を創出していく人材です。ならば、その報酬は、創出された付加価値の分配を通じて決められるべきです。
 これが、資本人材処遇の中核部分ですが、もはや詳細を論じる余裕がありませんので、機会を改めたいと思います。ただ一言だけ先にいっておけば、組織が先にあって、組織が人を動かすことで付加価値を生むのではなく、人が先にあって、人が環境(組織内の全ての有形無形の資産)を利用して自律的に動くことで、企業のなかに付加価値が生まれてくる、このような発想の転換、即ち連続的変革を生み出す組織論こそが鍵であったということです。

以上


 次回更新は8月1日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2013/07/18掲載「人材の不良債権化
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論

≪ アーカイブから今週のお奨めは「風化させないために」  ≫
2013/01/10掲載「東京電力にこだわり続ける、日本の明るい未来のために
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。