「異常に巨大な天災地変」と東京電力の責任

森本紀行
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「異常に巨大な天災地変」とは、「原子力損害の賠償に関する法律」に定める原子力事業者の免責事由のことですね。今回は、このたびの巨大地震と津波が「異常に巨大な天災地変」に該当するかどうか、という議論でしょうか。

 そうです。周知の通り、「原子力損害の賠償に関する法律」の第三条は、原子力損害に関して、原子力事業者の賠償責任を定めています。しかも、無条件に賠償責任を定めているのです。という意味は、過失の有無や賠償の範囲など、一切の付帯条件なく、端的に責任を定めているということです。いわゆる無過失無限責任です。
 また、第四条は、原子力事業者のみが責任を負うことを定めています。つまり、原子炉の製造業者などには、責任は及ばないのです。いわゆる責任集中の規定です。
 現在の問題について具体的にいうと、原子力事業者とは、東京電力です。原子力損害は、「核燃料物質の原子核分裂の過程の作用又は核燃料物質等の放射線の作用若しくは毒性的作用により生じた損害」ですが、これも、条件のない端的な規定ですから、今回の事故に起因する、ほぼ全ての損害を含むと考えていいのでしょう。
 つまり、今回の東京電力の原子力発電所の事故については、東京電力が、東京電力だけが、全損害額について賠償責任を負うことになります。ただし、この「ただし」が今回の主題なのですが、事故の原因が「異常に巨大な天災地変」によるときは、東京電力の賠償責任は、全くなくなるのです。
 実は、先ほどの、第三条には、ただし書きがついていて、「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」とされています。このただし書きについては、様々に議論され、複雑な経緯が絡んでいると思われるのですが、何よりも難しいことは、ただし書きの適用があるかないかで、無限責任と無責任という、あまりにも極端な結果の差を生じてしまうことです。


「異常に巨大な天災地変」の定義は何でしょうか。

 それが明示できるならば、簡単だったのです。誰に、「異常に巨大な天災地変」を、科学的に、客観的に、定義できるというのでしょうか。社会制度的には、司法の判断によるしかないでしょう。しかし、そのような事後的判断は、現時点では意味がない。なにしろ、現に、早急な補償を必要とする損害が、目の前に存在しているのですから。
 今は、補償すべき損害を前にしている今は、政治的に決めるしかない。政府が決めるしかない。その政府の決定に不服があるなら、事後的に行政訴訟でも起こして、司法の判断を仰ぐしかない。それが、社会の仕組みでしょう。


政府は、「異常に巨大な天災地変」による事故ではない、つまり、東京電力に全責任がある、という立場のようにみえますね。

 ええ、そのようにみえますね。しかし、私の知る限り、政府の明確な認識を示したものは、発表されていないのではないかと思います。つまり、今回の巨大地震と津波が「異常に巨大な天災地変」ではない、ということを示すためには、それなりの論証が必要なのですが、そのような説明はないように思えるのです。
 原子力発電所の設置管理については、政府の定めた厳しい安全基準があります。この基準、ひとつの考え方として、「異常に巨大な天災地変」には対応し得ない基準、と定義できると思います。素直ないい方をすれば、安全基準は、通常の大きさの天災地変に対応しているはずだ、ということです。
 それはそうですよね。安全基準は、想定の範囲の天災地変に対応するものとしてしか、作り得ないでしょう。だから、安全基準の想定を超える天災地変をもって、「異常に巨大な天災地変」の社会的な意味における定義としてもいい、といいますか、他には考えにくい、と考えられるのです。
 だとすると、政府は、安全基準の想定の範囲内の事故と考えているのでしょうか。いずれにしても、政府には、何らかの説明の論理をもって、今回の巨大地震と津波が「異常に巨大な天災地変」ではなかったことを、結論付ける義務があるのです。そのような説明の義務を果たさずに、東京電力の責任を追及するのは、無責任だと思います。


しかし、結果から判断する限り、今回の事故は、安全基準の想定を超えた津波に起因するようにみえるのですが。

 そこが問題の核心です。到底、簡単には答え得ないので、少し迂回しましょう。東京電力の福島第一原子力発電所が、安全基準を満たしたものであったかどうか、これが先決問題ですね。
 この点についても、私の知る限り、政府の明確な認識は表明されていないようです。しかし、同時に、政府は、安全基準に抵触するような問題をも、指摘していないと思います。特に、焦点になっている全電源喪失についてですが、原子力安全委員会が定めた「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の中では、「考慮する必要はない」とされています。
 どうやら、政府は、自身が定めた安全基準に反するような東京電力側の瑕疵過失を、認定していないようです。ということは、今回の事故は、安全基準を厳格に遵守しても避け得なかった事故、ということになるのだろうと思われるのです。ところが、政府は、この点でも明言を避けている。


明言すれば、政府の責任が明確になるからでしょうか。

 恐らくはそうでしょう。しかし、実態として、政府は、安全基準への違反を認めていないのだから、反対効果として、安全基準の想定の外の事故であることを、暗に認めたのだと思います。そして、安全基準を超えるか超えないかで、「異常に巨大な天災地変」を定義するとすれば、東京電力に責任はないことになります。
 政府は、究極の自己撞着の中から、強引な戦法に打って出ているのではないでしょうか。もしも、「異常に巨大な天災地変」ではないというなら、安全基準は不十分であり、そこに責任があったことになる。なのに、安全基準の不備を認めることなく、東京電力に無限責任を負わせようとしている。責任の転嫁ともいえる身勝手な論法ではないのか。


そこまでいうと、政府に対して酷かもしれませんね。「異常に巨大な天災地変」に認定することによる、別の不都合をも考慮した上で、敢えて政治決定として、東京電力に無限責任を負わせることを選んだのではないでしょうか。

 そうかもしれません。だとすれば、その政治決定の論理を、国民に説明する義務があります。しかし、そのような説明はありません。しかし、敢えて政府に好意的に、可能な論拠を検討してみましょうか。
 第一に思いつくのが、「原子力損害の賠償に関する法律」の第十七条の規定です。そこでは、「異常に巨大な天災地変」に起因する原子力損害について、政府は、「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする」とされているのです。つまり、賠償の定めがないのです。一方、原子力事業者は免責になっているので、被災者は、どこからも補償を受けられないのです。
 この規定は当然かもしれません。「異常に巨大な天災地変」については、政府のできることは、最低限、被災者の救助及び被害の拡大の防止に限られるのです。経済的損失の補償については、国民全体の利益考量の中で、そのときの新たな政治決定として、他の法律に基づく補償や、特別法による補償を検討することが、予定されているのだと思います。
 一方、原子力事業者の無限責任を認めるときは、当然に、原子力事業者の負担能力に限界があることを前提にして、第十六条で、政府は、「原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする」とされているのです。ただし、政府の援助の範囲は、同条第二項で、「国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内」とされています。
 「異常に巨大な天災地変」にすると、政府も東京電力も、賠償責任がなくなり、改めて政府の補償責任を定めることになる。しかも、政府の補償が行われるときも、東京電力の責任は発生しない。つまり、全額税金の投入になる。
 ところが、「異常に巨大な天災地変」ではないことにすると、現行法制の枠の中で、東京電力に第一次的な賠償責任を負わせ、かつ援助を通じて政府が第二次的賠償責任を負えるという利点があるのでしょう。
 いくつかの高度な政治的考慮があるのかもしれません。ひとつには、東京電力に対する国民感情。損害について免責にしてしまうことへの反発は、非常に強いでしょうね。もうひとつには、手続きの容易さでしょう。今の政権は、基盤が脆弱なので、本来やるべきことよりも、とりあえずできることに流れやすいのかもしれません。


政治的配慮はわかるにしても、法の秩序を政府自身が乱すわけにはいきませんね。確認ですが、「原子力損害の賠償に関する法律」のもとで、東京電力は免責でしょうか。

 司法が判断することです。私は、もしも、「異常に巨大な天災地変」の定義を、政府の安全基準の想定を超える災害とするなら、東京電力は免責だと考えるだけです。そうではなく、「異常に巨大な天災地変」の定義が、別途、安全基準をも超える高いところにあるならば、東京電力は無限責任を負うと考えます。
 むしろ、皆さんに問いたい。もしも、「異常に巨大な天災地変」の定義が安全基準を超える高いところにあるのならば、それは、どのような定義によるのでしょうか。「原子力損害の賠償に関する法律」が、免責を定めた立法の趣旨は何だったのでしょうか。政府の法律の解釈には、どの程度まで政治的判断の介入が許されるのでしょうか。東京電力を免責にすることに対する国民感情の反発は何に起因しているのでしょうか。よく考えてください。


それらの論点については、次回になるということでね。そういえば、今回はまだ、投資との関連がでてきませんね。

 私の一貫した主張は、資産は法律上の権利だということです。株も債券も債権も不動産も、資産というのは全て、収益の分配を受ける法律上の権利の種類のことです。ですから、法律上の権利があやふやでは、法律の適用が、政治的理由や国民感情への配慮で、不確定になるようでは、投資はなりたたないのです。
 事実、「原子力損害の賠償に関する法律」の適用関係があいまいでは、東京電力の株式にも社債にも、投資できない。東京電力が無限責任を負うのであれば、恐らくは、株式は無価値ですし、社債もかなり危険です。一方、免責になるならば、社債は充分に安全でしょうし、株式も無価値にはなり得ないでしょう。

以上


次回更新は、4月28日(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。