「二銭銅貨」的な悔やみと社会的責任

森本紀行
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黒島伝治の佳編に、「二銭銅貨」というのがあります。

 黒島伝治といっても、ご存知の方は、ほとんどいないでしょう。戦前のプロレタリア文学を代表する作家ですが、いまでは、忘れられてしまったのかもしれません。
 もっとも、戦前のプロレタリア文学そのものが、省みられないのかと思っていたら、最近は、小林多喜二の「蟹工船」などが読まれるようだから、この黒島伝治も見直されたらいいなと思います。実は、岩波文庫で読めるのです。「渦巻ける烏の群 他三篇」の、「他三篇」の一つが、この「二銭銅貨」なのです。


この小説、いたって短いものです。貧しい農家の少年が、飼い牛の番をしているときに、頭を牛に踏まれて死んでしまう、ただ、それだけの話です。

 農家の子が、飼い牛の番くらいで、頭を踏まれたりはしません。なぜ、そうなったかというと、独楽の緒(独楽回しに使う紐のことです)を柱にかけて引っ張っていたときに、手が外れて転んだ、その転んだところを踏まれたのです。
 なぜ、独楽の緒なぞを引っ張っていたかというと、少し短いので、引っ張って伸ばそうとしていたのです。引っ張ったら伸びると思って、懸命に引っ張るところが、いじらしいのです。
 では、この独楽の緒、なぜ、少し短いのかというと、母が独楽の緒を買ってあげるときに、二銭惜しんだからなのです。つまり、ちゃんとした正規の長さの緒は十銭だったのですが、一つだけ短いのがあって、店のものが、その短いのだったら八銭でいい、と値引いたのです。母は、十銭渡して、おつりに二銭銅貨をもらう。そして、少し得をした気持ちになる。その二銭銅貨が作品の名前になっているのです。
 それから、もうひとつ伏線がある。実は、この少年が死んだ日、隣の部落に、田舎回りの角力の興行があって、他の子供たちは、連れ立って見に行ったのです。もちろん、少年も、それへ行きたがった。それを、母は、「うちらのような貧乏タレにゃ、そんなことはしとれやせんのじゃ!」といって、行かせなかったのでした。


事故から三年。母は、いまでも悔やむのです。

 二銭惜しんで短い緒を買うのでなかった、角力を見にやったらよかった、「といまだに涙を流す。・・・・・・」。この小説の末尾、本当に、「といまだに涙を流す。・・・・・・」なのです。作者の思いの全ては、「・・・・・・」に籠められている。私は、これほど深みのある「・・・・・・」を知らない。
 この母の悔やみ、人間の心情として、痛いほどわかります。しかし、論理的には、少年の死は偶発事故であり、母が二銭惜しんだことや、角力に行かせなかったこととは、独立の事象です。故に、母に帰責事由はないのです。つまり、少年の死を悲しみ悼むことは母として当然としても、二銭を惜しんだこと、少年を角力に行かせなかったこと、この二つの自己の行為に関しては、少年の死との関連における悔やむべき責任はないのです。
 もしも、二銭を惜しんだこと、少年を角力に行かせなかったこと、この二つのことと少年の死との間に、何らかの因果関係を見るならば、その因果の連鎖は、もうひとつ上へいかなければならない。つまり、「うちらのような貧乏タレにゃ、そんなことはしとれやせんのじゃ!」という貧困へ、そして貧困を生み出す社会的矛盾へまで。
 この作品が、プロレタリア文学であるのは、いうまでもなく、心情的悔やみにとどまる母の、そして当時のプロレタリアート一般の、意識を、社会矛盾の認識の方向へ向けようとする作者の意図によるのです。そして、これが文学であるのは、作者が、母の心情への暖かい思いやりを前面に立てて、意図の全てを、「・・・・・・」の中にとどめたところにあるのです。


この小説、人間は、自己に降りかかる偶然の悲劇を、いかに受け止めるのか、という非常に深い論点を示しているようで、そこが、私がこの小さな作品を好んでいる理由なのです。

 偶然の悲劇に、理由はないのです。理由があるなら、偶然ではない。しかし、人は、理由のないものを受け入れることには、何がしかの抵抗があるに違いないのです。何らかの理由をつけて合理化しない限り、受け入れ難い。このことは、視点が異なりますが、投資の不確実性との関連において、8月19日のコラム「「古池や蛙飛び込む」的な市場理解について」でも、論じておきました。
 さて、その合理化の方法ですが、第一は、この母のように、敢えて自己の責に帰す心情的方向があるのでしょう。
 第二は、この小説の作者が意図したように、社会的必然に転化する方向です。どのような社会的事象も、社会全体の行為の連鎖の中にある以上、因果の連鎖をたどれば、何らかの原因へたどりつく。それが、この小説の場合、貧困なのです。
 第三は、不可知の摂理へ帰すことです。偶然はないのです。全ては、定められた宿命なのです。摂理を司るものを神と呼ぶにしろ、呼ばないにしろ、これは宗教的方向です。


ここで、高尚な文学から、一気に現実社会の問題へ下降すると、要は、大雨で河川が氾濫して自分の家が流されてしまったら、そこに家を立てた自分が悪いのか、河川管理を怠った国のせいなのか、自然災害だから仕方ないのか、というような受け止め方の問題になってしまいます。

 こういう場合、大雨自体は偶然の事象だとしても、河川の氾濫との関連については、国の社会的責任が問われ得ます。河川の洪水対策については、一定の蓋然性の中であり得る大雨に対する耐性を要求されているのだと思います。その範囲を超えた大雨、経験上、予見し得ない大雨については、管理責任はないのでしょう。
 予見し得ない大雨に起因する洪水については、神様を恨むか、自分を恨むしかない。しかし、社会通念に照らして、あるいは過去の経験則から判断して、十分な予見可能性があるとなると、誰かの責任に帰すことができる。というよりも、社会の仕組みとして、誰かの責任に帰すしかない。
 同様に、ある状態を放置することが、何らかの事故を誘発する可能性のあることを承知しながら、対策を講じないときには、現実に事故が起こった場合には、その責任を問われる場合もある、ということでしょう。


そうした帰責関係を確定するのが司法の仕組みである以上、心情や宗教の入り込む余地のない現実社会の仕組みの中では、法律的責任の有無が全てなのです。

 法律的責任は、社会が変れば変わります。法律そのものも変るでしょうが、法律が同じでも、適用については、判例の形成を通じた事実上の立法によって変化していきます。しかし、放っておいて自然に変るものではない。変える努力がなければ、変らない。立法は政治によって、政治は国民の政治参画によって、判例形成は訴訟活動によって、変える努力がなされるから、変るのです。当然です。


法律的責任を問うこと、そのこと自体が国民の責任なのです。責任を問う責任が果たされなければ、社会の進歩はないのでしょう。

 私は、責任を問う責任という構造については、投資家が資本市場に対する責任を果たさない限り、資本市場は投資家に対する責任を果たさない、という形で繰り返し論じてきました。このことについては、2009年10月29日のコラム「インデクス運用は、常識に照らして、まともな行為なのか」を、ご参照ください。投資家が責任を果たさない限り、資本市場の進歩はないのです。
 ところで、「二銭銅貨」の母、もしかすると、自己を責めて涙している場合ではなかったのかもしれない。幼い子供に労働を強いたことに事故の核心があるとしたら、幼い子供に労働を強いざるを得ない貧困こそが問題だとしたら、その貧困を救済する責務を怠った政府には、責任があるのかもしれません。だとしたら、母は戦わねばならない。多くの同様な母の小さな戦いが集積していくことで、社会変革も起きるのです。
 この小説、その主張の全てを、最後の「・・・・・・」に籠めたのですが、それには、もちろん、文学としての、芸術としての、技巧もあるのでしょうが、それだけでなく、当時の厳しい言論統制への配慮もあるのだと思います。


今は違います。私は、「いいたいことをいえる」とはいいたくない。「いうべきことをいえる以上、いうべきことはいうべきだ」といいたい。

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。