他人の損失で自己の利益を得るなかれ(後編)

森本紀行
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資産運用の世界では、市場指数に勝つとか、負けるとか、そのようないい方をします。

このような市場指数に基礎をおいた投資の考え方に、どの程度の意味があるのか、ということを今回は論じようとしているわけではありません。これは、次の機会にやりましょう。そうではなくて、今いいたいことは、市場指数という平均値を基準に議論している以上、勝ちと負けの合計は理論的にゼロである、ということです。完全なゼロ・サムの議論なのです。
 ところで、このゼロ・サムですが、これは、本当の意味でのゼロ・サムではありません。勝ち負けは、あくまでも市場指数という平均との差だからです。平均自体がゼロ以下でない限り、負けたといっても相対的な意味で、絶対的にはプラスの収益であり得ます。平均値が十分に高ければ、ほぼ全員が絶対的なプラスの収益を得ているのです。ですから、勝ち負けといっても、要は、上手に投資したものの相対的な利益が大きくて、下手に投資したものの利益が相対的に小さいという意味であって、その限りでは、能力と努力の差が所得格差につながるという、健全で公正な競争社会のありようをいっているに過ぎません。
 では、市場の平均的収益がゼロになったらどうなるか。勝ち負けは、本当のゼロ・サムになってしまいます。つまり、自己の利益の裏には必ず他人の損失があるということです。しかしながら、一方の利益と他方の損失には連関がありません。市場の平均は結果に過ぎないので、一群の銘柄がプラスの収益で、他の一群の銘柄がマイナスの収益であることに、相互に何の因果関係もないのです。ですから、結果的に他人の損失の上に利益がでたように見えても、それは形の上だけのことです。
 実のところ、公開市場の中での投資であるかぎり、結果的に他人の損失の上に利益がでることがあっても、市場参加者が各自独自に行動した結果に過ぎないので、健全で公正な競争社会の秩序は維持されるのです。そこに、公開市場の、あるいは市場原理の、貴重な価値があります。
 ところが、世の中、全ての領域で、常時、市場原理が健全に働くわけでもありません。意図的に他人の損失の上に自己の利益を作ることは可能です。意図的に、といういい方が強すぎるのであれば、自己の利益を守る行動が、その帰結として他人に損失をもたらすことを承知の上で、やむを得ず振舞う、ということはあり得るのです。そんな事例はいくらでもあるわけですが、現下の金融経済情勢に照らしてみて興味深いのが、債権者とその他の利害関係人との深刻な利害の対立です。

銀行等の債権者と企業の関係は、全く私的な相対の関係です。

銀行が債権者としてどう行動するかは、私的な契約関係にしたがった行為です。そこで、もしも、突然に銀行が融資の継続を拒んだとしても、契約上、融資の回収が当然の権利であり、借換えに応じなければならない義務がないのであれば、法律上の問題は全くありません。しかし、もしも借手企業が与信先としての一定の条件を満たすのであれば、銀行のビジネスとして、融資を打切ることの経済合理性がありません。ですから、通常の金融環境であれば、この会社は、他の銀行からの借入が可能なはずで、直ちに経営上の深刻な問題は起きないでしょう。まさに、経済合理性の上では、競争社会の市場原理が銀行業にも働くのです。
 しかし、これも、通常の金融環境であれば、あるいは市場原理が機能する限り、ということです。現在のような異常な状態では、銀行等債権者の行動が、株主・従業員・顧客など債権者以外のステイク・ホルダー(全利害関係人)の利益を著しく毀損させてしまうこともあり得るのです。
 一定の銀行借入を行って経営している場合は、ほとんどの会社において、その借入を即時弁済することは不可能に近いでしょう。そもそも、即時弁済できるような会社においては、借入の必要性自体がありません。もしも、企業が一時的不振に陥って、銀行借入が、財務制限条項の抵触等により期限の利益を失い即時回収可能になったら、どうなるでしょうか。通常の状態であれば、銀行は条件緩和等の対応を検討して、強引な即時回収は避けるでしょう。そうすることで、銀行は、長期的な顧客との関係を維持し、再建を支援し、結果的に、その顧客企業のお客様・従業員・株主などとの間の利害の合理的な均衡を実現するはずです。しかし、もしも、強引な回収を実行したら、どうなるでしょうか。企業としては、返せない可能性が高いので、債務不履行で倒産になるでしょう。その結果、その顧客企業のお客様・従業員・株主に、多大の損失が及ぶことになります。
 この場合、銀行も損失を受けるのかもしれません。全利害関係者が応分に損失を負担したということで、それなりに公正・公平というのでしょうか。しかし、別な方法による解決を目指したら、逆に、全利害関係者が応分に利益を得たかもしれない、と考えるときは、少し疑問も残るでしょう。銀行は、自己の行動に際して、全体的な帰結の社会的影響を十分に考慮しなければならない、そのような社会的責任があるのだ、ということなのだと思います。
銀行が融資を満額回収したがゆえに、あるいは、借換えに応じなかったがゆえに、企業が倒産するということでは、銀行の行動として、社会的な責任の視点から問題を指摘されることも、やむを得ないのだと思います。いわゆる「貸渋り・貸剥がし」の社会的問題性ですね。つまり、銀行は、少なくとも他人の損失の上に自己の利益を実現してはならないという原理を意識すべきだ、ということなのでしょう。
 もちろん、銀行は、平時においては、社会的影響を考慮して行動しているのです。ただ、現下のような環境においては、自己のやむを得ざる経営上の都合から、苦渋の選択として、最悪の行動を取らざるを得ない場合がある、ということなのです。そこに営利を目的とする私企業としての銀行の行動の限界があるならば、公的資金の投入等によってでも、社会的利益の実現を図ろうというのが、今の世界的金融支援策の背景です。
 しかし、現在の金融経済危機において、深刻な利害の対立は、なにも銀行をめぐってのみあるわけではありません。もう少し視点を広くして、様々なステイク・ホルダー間における、自己の利益と他人の損失の関係を検討してみましょう。

(⇒後編はここから)

まず、最初に売上があります。なぜ売上があるのかというと、顧客がサービスなり商品なりに価値を見出すからです。社会に価値を提供できない限り、売上は立ちません。売上には原価があります。原価を構成する要素は様々でしょうが、代表的なものとしては、商品や原材料等の仕入先企業、部品等を製造する下請企業などに対する支払いがあります。仕入先や下請の協力企業などに原価を支払った残りが総利益です。総利益から販売管理費などの内部経費を支払うと、残りが営業利益です。販売管理費等の大きな部分が人件費です。営業利益から金利等の金融費用を払うと経常利益になります。この経常利益から税金を払った残りが純利益です。この最終の純利益が株主に払われることになります。
 企業のステイク・ホルダーとは、単純化すると、上の収益分配に現れるとおりに、顧客、協力企業、従業員、銀行、国税庁、株主という順番で存在しています。先ほどは、「貸渋り・貸剥がし」として、銀行と他のステイク・ホルダーとの間の利害対立の可能性に触れました。では、「派遣切り」に象徴される雇用問題とは何でしょうか。従業員の犠牲です。「下請けいじめ」とは、協力企業の犠牲です。「偽装」とは顧客の犠牲です。これらの社会問題化している現象は、企業統治におけるステイク・ホルダー間の利害対立に帰着するのです。
 問題の鍵は、顧客、協力企業、従業員、銀行、国税庁、株主という順番にあります。株主は最後です。損益計算書の最下行にあるのが株主の利益です。貸借対照表の最下行にあるのが株主の持分です。経済的には残余に与るに過ぎない株主が、経営の頂点にいるのが、企業統治の特色なのです。経済的権利において最下位にいることの対価として最終的な経営権をもつ、あるいは、最終的な経営権を持つことの責任の果たし方として、経済的権利における最下位の地位に甘んじる、というのが株主なのです。
 所有と経営の分離を前提にした企業統治においては、株主がもつ最終的な経営権は、専門の経営陣に委嘱されています。ですから、経営陣としては、株主の利益を守ること、株主に適正な利潤を還元することが、経営課題になります。企業統治論が、どうしても株主を頂点とした構図になりやすいのは、当然であります。

また、顧客、協力企業、従業員、銀行、国税庁、株主と並べて見ますと、これが、弱い組と強い組の二つに分けられるのがわかります。

顧客、協力企業、従業員の弱い組と、銀行、国税庁、株主の強い組です。強い組のうち、国税庁は特殊なので抜きましょう。残った銀行(債権者)と株主は、企業の貸借対照表の右側、すなわち企業の資本構成を代表しています。つまり企業資産の広義な所有者なのです。
 ステイク・ホルダー間の対立は、二階層になっています。弱い組(顧客、協力企業、従業員)と、強い組(銀行、国税庁、株主)との対立と、弱い組と強い組の、それぞれの中における対立です。例えば、「派遣切り」は、大きくは、株主(資本)と労働者の対立ですが、小さくは、労働者内部の正規雇用とそれ以外の対立です。いずれにしても、対立の本質は、いうまでもないでしょうが、立場の強いものと、立場の弱いものとの間の対立です。ワークシェアリングの議論の危険性は、労働と資本という本質的な力の格差を、労働内部の小さな相対格差に矮小化する可能性です。もちろん、弱い側は、消費者にしろ、労働者にしろ、あるいは協力企業にしろ、様々な法律で保護されています。しかし、企業統治の問題は、法律上の最低限の次元にはなくて、社会的責任としての高位な次元にあります。違法ではないということと、社会的正義とは、同じではありません。
 理想的な企業統治のあり方は、顧客に社会的価値を提供した対価として受け取った売上が、協力企業、従業員、銀行、国税庁の順番に、適切に公正に支払われて、結果として、最終的には株主に適正利潤が還元されるという仕組みを実現することです。このときは、誰も、他人の犠牲、他人の損失のもとに、自己の利益を得ることはないでしょう。


次回更新は、4/9となります。よろしくお願い致します。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。