金融危機にみる保険(リスクヘッジ)とモラル・ハザードの関係

森本紀行
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保険とモラル・ハザードの関係は、保険理論では、いい尽くされた古典的問題です。

有名な例は、「落第保険」です。もしも、大学の入学試験に落第したら保険金が支払われるような保険、例えば、予備校の授業料を補償するような保険は、モラル・ハザードを引き起こすので、成り立ち得ないとされています。言うまでもないですが、安心して落第できるというような状況を受験生のために作り出すと、受験生は勉強しなくなるので、本当に落第する可能性を高めてしまうからです。
 保険というビジネスの立場から見ると、保険会社が顧客から貰う保険料は、統計的実績に基づくのに対して、顧客の悪意ある意図的行動により、統計的実績よりも高い事故率が実現すると、保険金支払額が総保険料収入を上回ってしまい、ビジネスとして成り立たなくなるということです。このような悪意ある意図的行動や、積極的に事故を回避しようとしない怠慢など、保険という仕組みが誘発してしまう倫理的に問題のある行動を、モラル・ハザードというのです。
 では、自動車保険の場合はどうでしょうか。継続的に自動車の運転を続ける限り、事故率の上昇は保険料の上昇を招き、顧客にとって不利になります。万全の注意を払い、事故を回避する努力をすることが、顧客の利益になるように仕組まれています。つまり、モラル・ハザードが起きないように出来ています。だから、自動車保険はビジネスとして成立するのです。ビジネスとして成立するものは、投資対象としても成立します。

ところで、どんな事業を営む場合でも、本業そのものの遂行のためには、付随する様々なリスクを犯さなければなりません。

例えば、衛星放送の事業を営めば、人工衛星を打ち上げる必要があります。人工衛星の打ち上げに失敗すれば、大きな損失を招きますから、当然に保険をかけるでしょう。本業に付随する本業外のリスクには保険をかける、つまりリスクヘッジをする、このことは、本業に経営資源を集中する意味でも、望ましい経営のあり方であると考えられます。
 一方、本業そのものにも固有のリスクがあるのは当然です。しかし、本業のリスクには、保険は掛けられません。受験生にとって、大学に合格することが、いわば本業です。ゆえに不合格のリスクには保険は掛けられないわけです。本業のリスクをヘッジすることは、典型的にモラル・ハザードを引き起こすと考えられます。
 本業のリスクと本業に付随するリスクとの境目は、実は、不明確です。付随リスクとみなされて保険を掛けていたものが、実は、本業にかかわる本質的なリスクである場合には、知らぬ間にモラル・ハザードを引き起こす原因を作ることになります。例えば、銀行の本業とは何でしょうか。自明のようであり、今日の複雑な金融市場の仕組みの下では、銀行等の金融機関の本業の定義は困難です。
 少なくとも、普通の人の常識からすれば、銀行の重要な機能の一つが、与信であることは明らかであると思われます。与信行為には、審査から始まって、債務者との日常の接触に基づく細かな債権管理、確実な回収などを本業として含むはずです。この本業のリスクである与信リスクをヘッジすることには、実は、モラル・ハザードを誘発する恐れがあるはずです。もしも、債務者破綻によってこうむる損失がヘッジ出来るとするならば、審査や債権管理が杜撰になる可能性は否定できないでしょう。

リーマン・ブラザーズの破綻は、世界に衝撃を与えました。

しかし、実質的なリーマンに対する債権者は必ずしも明確ではないようです。なぜなら、表面的な債権者として現れる銀行等も、その実質的な与信リスクを、相当程度ヘッジしているらしいからです。債務者に近い表面的債権者は、リーマンの実情を知る位置にいるが、その債権者は単に資金を仲介しただけで実質的与信をしておらず、実質的にリーマンに与信しているものは、リーマンに遠くて日常的債務者管理ができない立場にある、というような情報の非対称性が、実はモラル・ハザードの重要な要素なのです。
 問題なのは、高度に発達した金融システムは、様々なリスクヘッジの手法を提供していて、そのリスクヘッジの機能を提供しているのもまた、金融機関であることです。意図的に、あるいは意図せずして、ヘッジしてはならない本業固有のリスクまでもヘッジすることで、極めて危険なモラル・ハザードを作り出す可能性を、現在の金融システムは内包しているといえます。

現在の金融市場が作り出す様々な金融商品に、我々は、投資していかなければなりません。

金融商品の評価に際しては、基本的要件の確認が必要です。そのような要件の一つが、仕組み上、モラル・ハザードを内包していないか、ということです。今となっては明らかですが、サブプライム問題の本質は、モラル・ハザードです。転売目的の住宅ローン債権は、融資実行者において、最初から与信リスクを負担する気がないのですから、審査が杜撰になるのは当然です。そのような債権を原資産にして、いかに高度な金融工学を凝らそうとも、まともな金融商品は生まれ得ないわけです。住宅ローン債権の証券化自体に問題があるわけではありません。モラル・ハザードの起き得ない仕組みがあればよいのです。サブプライム問題は確かに業者側の問題ではあるのですが、投資家側でも、証券化商品の選択において、重要にして基本的なチェックポイントが欠落していたと思えます。

次回更新は、10/16となります。よろしくお願い致します。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。