無用になった銀行が消えた後に残る必要なもの

無用になった銀行が消えた後に残る必要なもの

森本紀行
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銀行の果たしてきた社会的機能は銀行でなくとも供給できる、むしろ銀行でないほうが効率的に提供され得る、そういう可能性が急速に現実味を帯びてきて、銀行の存在意義が揺らぐなか、改めて銀行とは何か、銀行でなくてはならない必然性はどこにあるのかが問われなくてはなりません。問うて、その答えがみつからないなら、銀行は消滅するしかありませんが、さて、銀行は存続し得るのか。

 銀行という仕組みが発明されたことは、蒸気機関の発明と同様に、産業の飛躍的成長をもたらすことで、人類の歴史に大きな貢献をしたのです。しかし、それは銀行が蒸気機関と全く同じように歴史的存在であることをも意味するわけで、蒸気機関が技術的に高次な動力に置き換えられて消え去ったように、いつか銀行も消え去る運命にあることを暗示するのです。問題は銀行機能を代替する技術的に高次な仕組みが登場する時期だけだったのですが、ついに、その日がきてしまったようなのです。

では、銀行は消滅するのでしょうか。

 そういう問いは、内燃機関は消滅するのかという問いと同様に、意味がないのかもしれません。国家の制度設計の問題として内燃機関が禁止されれば内燃機関が消滅するのと同様に、金融法制の抜本的構造改革により銀行関連法規が廃止されれば銀行は消滅しますが、その可能性について合理的な予測をたてることはできません。
 むしろ、現に銀行が果たしている機能から、銀行でなくともできること、銀行によるよりも利便性が高くなることを引き去って、最後に銀行にしかできないことが残るかどうかを考えるべきです。そして、考え尽くしたところで何かが残り、その残ったことに社会的必需を見出すことができれば、少なくとも、その残された機能の範囲内で銀行は存続し得る、というよりも存続しなければならないわけです。ただし、そのとき、引き続き銀行という名で呼ばれているかどうかは全く別問題だというだけのことです。

預金は銀行固有のものではないでしょうか。

 預金は銀行の本質を規定するものです。というよりも、預金を通じた信用創造こそ、銀行機能の本質なのです。つまり、信用創造とは、預金を原資に融資をすると債務者の預金が増加するという循環が生じることから、資金総量を増幅できるという発明なのですが、この信用創造を担う預金の発明こそ銀行の本質であって、故に、銀行は、呼び換えられて、預金取扱金融機関ともいわれるのです。
 逆に、預金取扱金融機関であれば、銀行と呼ばれていなくとも信用創造という機能面において銀行と同じですから、いわば広義の銀行に含まれます。それが信用金庫等の協同組織金融機関です。

では、信用創造機能は現在でも必要なのでしょうか。

 おそらくは、信用創造の必要性は消滅しているのです。故に、少なくとも信用創造という機能面からは、預金の必要性はなくなったのです。つまり、個人貯蓄が産業界に投資され、そこでの経済活動によって増殖されて個人に還流してくるという資金循環は永遠に不滅ですけれども、その循環過程において信用創造により資金を更に増幅させる必要性は消滅しているのです。
 なぜなら、経済の成長に伴い、貯蓄の蓄積が進む一方で、相対的に経済成長率は低下するために、貯蓄を稼働させる機会が減退する、即ち資金需要が低下するのですから、信用創造により少ない資金を増幅させる必要はなくなるのです。逆にいえば、信用創造は、相対的に貯蓄が不足している経済成長期にのみ必要な機能であって、経済の成熟とともに必要性が消滅していく宿命にあるということなのです。

経済の成熟化に伴って蓄積が進めば、不足している資本を補うことよりも、蓄積された資本の稼働を効率化させることのほうが重要な課題になるのですね。

 それが現在の金融行政の課題なのであって、その要諦は、金融の主体を銀行から資本市場に移転させること、別言すれば間接金融から直接金融へ転換させることにつきます。つまり、国民貯蓄の産業界への還流方式は、資金不足の成長期においては、銀行の預金に吸収して信用創造機能により増幅させてから融資する形態だったのに対して、資金が過剰気味となる成熟期においては、信用創造が不要になるため、資本市場における社債や株式の発行を投資信託等で吸収することになるのです。
 また、成熟期においては、産業界に高度に蓄積された資本の効率的稼働を促すことが必要であり、ガバナンス改革が必須の要件になりますが、そのためにも金融は資本市場化されなければならないのです。なぜかというと、銀行と企業の関係は密室のなかの私的なものですから、ガバナンス改革への圧力が機能しにくいのに対して、資本市場に金融の舞台を移せば、ガバナンスが経営を左右する、つまり、ガバナンスの悪い会社は資金調達ができずに淘汰され、ガバナンスのいい会社は有利な資金調達により更に成長していくことを通じて、産業界全体のガバナンスがよくなると期待されるからです。

銀行の信用創造機能が消滅に向かうとして、同時に預金も消滅に向かうのでしょうか。

 少なくとも、国民貯蓄の受け皿としての預金は消滅に向かうでしょう。もちろん、預金には決済機能がありますから、預金の貯蓄機能が消滅しても決済機能は残るという可能性はあります。しかしながら、まさに、ここが問題で、技術革新によって決済手段としての預金に替わるものが登場してきた以上、そして、その新手法のほうが効率性の面で預金に優越する可能性がある以上、決済機能としての預金も消滅に向かわざるを得ないと予想されます。
 ただし、極めて小さな機能に縮小されても、預金は残ると思われます。それは、どのような決済手段が使われようとも、法定通貨がなくならない以上、通貨と決済手段との交換を行う必要性は残るわけで、それは預金を舞台にするほかないと想像されるからです。また、同様に、いかに貯蓄形態が多様化しようとも、貯蓄は消費されることが前提である以上、貯蓄を取り崩す舞台が必要なわけで、それも預金になると思われます。
 この最後に残る預金機能は、機能としては小さくても資金循環の結節点となる極めて重要なものですし、預金滞留資金というのは、いわば市場の流動性であって、日本国全体としてみれば必ずしも小さな金額になるとは限らないものです。また、預金は銀行の高度に規制された自己資本によって保護されていることも重要であって、これは決済手法の制度設計の問題ですけれども、どこかで安全性の保証が必要であることを考えると、そこに銀行の重要な役割が残るのかもしれません。

ところで、銀行の融資は消滅するのでしょうか。金融の資本市場化とはいっても、誰でも資本市場を利用できるわけではないと思われますが。

 融資は銀行でなくともできます。加えて、技術革新は多方面で飛躍的に進展しているのです。例えば、現在の技術では、個人向けのローンを銀行が提供する必要は全くありません。いわゆるノンバンクが資本市場から資金を調達してローンを供与すればよく、その調達方法は、米国などの例では、ローン債権の証券化によっています。また、真の顧客の利便性を考えれば、例えば、住宅ローン事業は住宅仲介業者が行ったほうがいい面もあり、ならば住宅仲介業者が資本市場からの資金調達を行えばいいということです。
 こうして、個人向けローンに限らず、様々な資本市場の技術を使うことで、幅広い企業や個人に対して、資本市場の間接的利用が可能になっているのです。また、資本市場は株式の取引所に代表されるような公開資本市場だけではありません。参加者が特定されているプライベートな市場も急速に拡大しています。もはや、資本市場は多くの企業や個人に開かれた利便性の高いものなのです。
 もちろん、日本の資本市場機能の現状は、米国に比較したときには、著しく見劣りがするのですが、故に、そこに日本の金融の進化の道筋と発展の大きな可能性がみえるのです。

要は、融資はなくならないが、預金を原資にして銀行が融資をする必要はないということですね。

 預金の社会的機能が低下することは、同時に、預金を原資にした融資の必要性が低下することでなければならず、そのためには、資本市場機能の高度化によって銀行の融資機能が代替されなければならないわけですが、金融技法の進展により、現に、それが可能になっているということです。また、上に述べたように、預金が一定程度は残るにしても、その流動性としての性格を考えると、融資の原資になるとは到底考え得ないのです。

そうしますと、銀行は存続するにしても、現在の機能の多くを失い、極めて限定的な役割を担うものに劇的に縮小するということですか。

 そのとき、もはや、銀行という名では呼ばれないでしょう。ただし、そのことは、現にある銀行が単に消滅するということではなくて、業態と組織構造を抜本的に変更して、異なる形態と手法により、より高度な金融機能を提供していくということです。銀行員がなくなるということは、現にいる銀行員が金融界を去ることではなくて、銀行員改め金融の真のプロフェッショナルとして顧客のために働くということですから、働き方改革にすぎないのです。

銀行がなくなるとして、他の預金取扱金融機関である信用金庫等もなくなるでしょうか。

 おそらくは、銀行が消滅しても、信用金庫等の協同組織金融機関は不滅なのだと思われます。なぜなら、そこでは預金を原資とした融資の必要性が消滅しない、即ち小さな貯蓄を信用創造によって増幅させる必要性が消滅しないと考えられるからです。
 もともと、協同組織は地縁や産業によって結ばれた個人と法人の集団であって、そこでの金融の仕組みは、構成員の資金需要に時間差のあることから、相互に余裕資金を融通することで集団全体の資金需要に応えることができるという相互扶助の原理に基づいています。
 実は、銀行という仕組みは、この相互扶助原理を原点にして、地縁的連関や産業的連関を超えて、預金顧客と融資顧客のそれぞれについて、不特定多数の大きな集団を形成し、更に預金による信用創造によって、協同組織の金融機能を大幅に高度化したものなのです。故に、協同組織を原点にしていた無尽会社は銀行に転換することで発展的に解消したのですが、信用金庫等は預金取扱金融機関として銀行と同じ機能を獲得しつつ、形態としては協同組織を保持して今日に至っているのです。

なぜ、信用金庫等は協同組織として存続できるのでしょうか。

 協同組織金融が相互扶助原理を脱却して不特定多数を対象とした銀行になった後にも、効率性重視の銀行の論理によっては金融機能から排除されてしまう人々が残されたのです。そのような人々は、金融排除に対する自己防衛のために協同組織を維持発展させてきました。
 そして、現在においても、金融庁が指摘するように金融排除は現にあるのです。ならば、相互扶助の理念と小さな資金を増幅させる信用創造機能が依然として有効かつ必要な状況があり、そのような状況に置かれた人々の集団がある限り、その集団を基礎にした協同組織金融機関は消滅し得ないということですし、消滅させてはならないということです。
 銀行が資本市場に代替されていくことは、実は、二つの可能性を示唆します。一つは、銀行機能を凌駕する高度な市場機能によって金融排除の領域を縮小させていく方向ですが、もう一つは、逆に、金融の市場化によって新たに金融排除の領域が生じてしまうということです。つまり、金融排除は金融構造改革によって簡単に解ける問題ではなく、故に、金融排除に対する防衛としての金融の原点に根差す協同組織が残り続けなければならないのです。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/01/18 掲載「地域金融機関の淘汰の原理と退出の作法
2017/03/30 掲載「地域経済を連結すると信用金庫になる
2017/02/23 掲載「銀行は消滅、信金・信組は不滅

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。