銀行は消滅、信金・信組は不滅

銀行は消滅、信金・信組は不滅

森本紀行
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株式会社の銀行と信用金庫や信用組合のような協同組織金融機関とは、表面的には同じ業務を行っているようにみえて、背後の理念においては、本質的に異なるものです。なぜなら、協同組織は、設立基盤となっている構成員間の相互扶助原理に基づき、共同体としての共通価値の創造を目的にして、金融機能を提供しているからです。
 
 信用金庫や信用組合は、金融機関である以前に、協同組織です。つまり、設立の背景としては、金融機関としての機能が先にあって、法人の形態として、協同組織が選択されたのではなくて、母体となる共同体が先にあって、その共同体のための相互扶助の一翼を担うべく、金融機能を提供する部門として設立されたものだということです。
 このことは、農業協同組合をみれば明らかです。農業協同組合は、ある小さな地域内の農家の相互扶助組織として設立され、それが同時に金融機能の提供である信用事業を行っているのであって、それは、どこまでも農業共同体の事業の一部なのですから、独立した金融機関の事業ではないのです。
 もちろん、信用金庫や信用組合は独立した組織ですが、共同体の存在を前提にしている構造は同じで、背景にある組織基盤抜きには、存立し得ません。なお、農業協同組合は、農業に特化して地域という軸で背景の共同体が分かれているのですが、信用金庫の場合は、地域という軸だけで、信用組合では、地域と産業という軸で、組織基盤が分かれています。
 
なぜ、金融専門機関としての銀行があるのに、共同体として、敢えて自前の金融機能を内製化するのでしょうか。
 
 金融機能の一般性を考えるに、いわゆる金融排除を想定しない限り、自前で金融機能を創出することには、効率面等における合理性があるとも思えません。
 ここで金融排除というのは、収益事業を営む金融機関の立場からみたとき、採算が合わないと評価されてしまう顧客層に対して、金融機能が提供されない状況をいいます。具体的には、融資を受けられない企業等が問題となるわけです。そして、現に協同組織金融が存在するということは、金融排除されていた人がいて、それらの人が共同して相互扶助のために協同組織を作ったということです。
 例えば、法人化が進んでいない農業では、個人営業が基本ですし、土地利用等が高度に規制されているので担保の設定も困難ですから、銀行の立場からみたときは、簡単に融資できるものではありません。故に、農業協同組合としては、共同仕入れ、共同出荷等の経済事業に加えて、信用事業も自前にせざるを得なかったのでしょう。
 農業に限らず、個人経営や小規模な企業を中心になりたっている産業では、同じような事情があったはずで、それらの事業者が集って、産業別に、また地域別に設立したのが協同組織金融機関なのです。なお、金融庁は、現在でも融資を受けられない中小企業等が存在するとの認識をもっており、そうした金融排除の解消を重点施策に挙げているわけですから、協同組織金融の存在意義は変わっていないようです。
 
零細な資金を集めても、大きな融資力は生まれないのではないでしょうか。
 
 協同組織的な金融のあり方としては、のような仕組みもあり得ます。簡単な例としては、村に100人いて、全員が1ずつ拠出して、抽選で、もしくは順次に拠出額の再分配を受けとる制度です。例えば、10人が選ばれれば、それぞれ10の資金を受けとることができるのです。
 興味深いのは、この講における拠出金と受けとる資金の性格です。講では、拠出することを掛けるといい、受けとることを落とすというのですが、講を貯蓄として構成すると、先に掛けて、後で自分の貯蓄を落とすことになりますが、借入として構成すると、先に落として、後で弁済として掛けることになります。
 故に、観念的には、一番先に落とす人にとっては借入となり、最後に落とす人にとっては貯蓄となり、間の人は、借入と貯蓄の混在となりますが、現実には、最初も最後もない無限な連鎖が前提になっているのですから、どちらだか不明になります。つまり、債権者と債務者が同じになってしまうのです。まさに、この主客一体性こそ共同体の本質といわざるを得ません。
 これに対して、信用金庫等の協同組織金融機関は、銀行と全く同じように、預金取扱金融機関として構成されていますから、信用創造ができるのです。つまり、預金100のうち、20%を支払準備として留保して、80を誰かに融資すれば、その人の預金口座に入金されることで、預金が80増加し、更に、その20%を留保して、64を別の人に融資すれば、預金が64増加する、これを無限に続けると、預金総額は、100を20%で除した額、即ち、500になる、この預金と融資の相乗的累増が信用創造ですが、これは預金だけの機能です。
 こうして、講という素朴な制度ならば100にとどまる資金量を、預金という高度な工夫をすることで何倍にも増幅することができるのです。ただし、こうした預金制度の効率のよさは、制度の緻密な設計と運用を前提にしていますから、同時に、預金を毀損させる危険さも内包するわけで、そこに銀行等の預金取扱金融機関が高度に規制されている理由があります。
 
しかし、信用創造は、成長経済においてこそ必要でしょうが、超成熟経済になってしまった日本においては、かえって不要無用ではないでしょうか。
 
 その通りです。信用創造というのは、資金の需要が供給を大きく上回る状況でこそ存在意義があるのですが、経済成長の進展は、一方で資金の蓄積を進めて、他方で低成長化に伴う資金需要の減退を招くので、逆に、資金供給力が資金需要を上回る時点を到来させるわけです。日本は、確実に、その時点を通過しています。故に、現在の金融行政の課題は、預金を削減することにおかれているということです。
 また、預金は、決済機能をもつところにも、大きな存在意義があったのですが、いわゆるフィンテックという問題領域において検討されていることの一つは、預金からの決済機能の分離ですから、この面からも、預金の必要性は急速に低下するはずです。
 預金取扱金融機関は、預金の決済機能と信用創造機能が中核になっているので、預金がなくなれば、それ自体が消滅せざるを得ません。そのとき、決済、資産形成、融資等の機能は、別の形態において、別の組織から提供されることになるのでしょう。そうなることで、顧客の視点における利便性が改善するなら、それこそ金融の進歩です。
 さて、預金取扱金融機関のうち、銀行は機能解体して新組織形態に移行することで消滅するとしても、信用金庫と信用組合は、金融機関である以前に協同組織であって、背後に設立基盤としての共同体があるので、その共同体を支える理念が生きて働いている限り、簡単には、なくならないと思われます。
 例えば、原点において金融排除に対する防衛策として設立されたことは、銀行との本質的な差異です。しかも、金融庁が指摘するように、金融排除は未だに存在するのですから、信用金庫や信用組合の必要性は依然として高いはずです。
 
しかし、金融排除が現にあるということは、現実問題として、協同組織金融機関が本来の目的通りに機能できなくなったということではないでしょうか。
 
 そこのところは、金融庁としても、信用金庫と信用組合としても、事実調査に基づいて、真剣に検討していかなければなりません。ただ、軽々には論じ得ませんし、金庫ごとに、組合ごとに、大きく事情が異なるのでしょうけれども、一つの可能性として、背後の共同体の理念が失われつつある面は否定できないかもしれません。
 相互扶助原理は、共同体を防衛するために、内部から脱落者をださないように機能するとき、真価を発揮しますが、それが可能であるためには、共同体としての強固な結びつきが必要です。先ほど、講のところで述べたように、共同体の本領は、自他の区別がないところにあるわけで、要は、仲間の苦難を自分のこととして解決しなければならないのですが、その共同体への帰属意識が失われれば、相互扶助が働かなくなるのです。
 しかし、そうはいっても、この理念的なことを金融の実務に適用すると、高度に難しい問題を引き起こします。なぜなら、助けるべきであり、助け得るものとして認定されれば、事実として助けているのでしょうが、そのような認定基準は、著しく曖昧なものとならざるを得ないからです。
 つまり、金融排除というのは、正当に評価したときには融資可能なはずなのに、金融機関が自己の都合を優先することで融資しないことであって、正当に評価したからこそ融資しないときは、金融排除ではなくて、原資である預金を守るための高度な責務の履行なのですが、さて、その境目は、金融機関自身も、金融庁も、外部の専門家も、客観的に明確なものとしては、知り得ないのです。
 
その難しい境目の認定は、協同組織だからこそ、可能になるということではなかったのでしょうか。
 
 実は、そうなのです。融資においては、債務者の状況を正しく把握することが決定的に重要なのですが、銀行としては、債務者の内部に入ることはできないので、外部化されている限られた情報で判断するほかありません。ところが、協同組織金融機関の場合は、理念的に債務者と債権者は同一ですから、内部的な評価が可能になる面があるわけです。
 このことは、業種別に作られた信用組合をみれば明らかだと思われます。なにしろ、業界事情に通じた人が役員になっているのですから。地域の事情についても、信用金庫の場合は、地方銀行よりも小さな地域共同体に基盤を置いているのですから、より深く知ることができるのです。
 しかし、ここには、矛盾的な状況があります。つまり、狭い領域に特化することで深く知ることができるので、理論的には融資能力が高度化するはずですが、その領域自体が内包する困難に対しては、逆に対応力を失うわけです。
 矛盾は、全体が成長するなかでは、顕在化しませんが、全体成長が止まれば、内部的な構造改革による再成長戦略しか道はなく、構造改革といえば聞こえはいいですが、意味するところは、一方における衰退と、他方における成長ですから、衰退側になる地域や産業では、協同組織の基盤自体が崩壊していく可能性があるのです。
 
故に、地方創生ですか。
 
 地方創生というのは、創生という用語が使われているように、現にある地方の活性化ではなくて、新たな地域経済圏の構築による地方の枠組みの抜本的変更です。つまり、共同体が衰退に向かっているところに、新たに価値を共有する共同体を作ることですから、単に、統合を進めるということではないのです。だとすると、信用金庫や信用組合が近隣同士で統合してきた過去の再編は、全く意味をもたないことになります。
 共同体原理が働かなくなるから、地方と産業が弱くなるのならば、共同体原理が働くように、地方と産業の組換えを行えばいい、それが地方創生の理念です。そのとき中核的役割を演じるのは、信用金庫と信用組合でなければなりません。だからこそ、そのような協同組織金融機関は不滅なのです。
 
以上

 
 次回更新は、3月2日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/02/09掲載「銀行死す、銀行員よ、死の覚悟をもて
2017/02/02掲載「金融のない社会のほうが望ましい
2017/01/26掲載「金融はロボットにやらせるべきか
2017/01/19掲載「顧客満足に反してこその金融
2017/01/12掲載「顧客満足は顧客本位ではない
2016/12/22掲載「金融機関監督庁から金融機能強化庁へ
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。