金融機関の自己利益追求が社会をよくする

金融機関の自己利益追求が社会をよくする

森本紀行
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資本主義経済の仕組みは、各人が勝手に自己の利益を追求することで、結果として、社会全体において、資源の配置が合理化され、所得の分配が公正化されるとの前提に立脚しています。もちろん、あちらこちらで深刻な機能不全を生じるので、政府による様々な調整を必要とするわけですが、基本原理は動かしようがありません。金融は、伝統的に規制色が濃厚すぎて、基本原理がみえにくくなっていましたが、最近の動向は、利益誘因による金融力の進化という基本原理への回帰を強めています。さて、うまくいくのか。
 
 金融庁が進めている行政手法の革命的ともいえる転換は、世界的にみても先進的な取り組みなのですが、その改革の中核をなすものは、金融機関の行動様式を変える動因として、規制による強制力の行使を放棄し、金融機関自身の自主自律を促していることです。自主自律に委ねられれば、金融機関としては、金融行政の方向に抗って改革しない選択肢もあるわけですから、もしも、改革するとしたら、それが自己の利益になると信じたときだけです。
 つまり、こういう新しい行政手法においては、行政目的を実現するために重要なことは、各金融機関が自己の利益の方向に行動するとき、金融庁が望む方向に金融界全体が動くように利益誘因を設計することです。このとき、より重要なことは、その利益誘因の構造を金融機関が理解し、確信をもって自己の利益のために行動することですから、そのような理解と行動を促すために、金融庁は金融機関との対話を行うとしています。
 
なぜ、規制によって強制する手法が放棄されたのでしょうか。
 
 規制によって強制されない限り履行されないようなことは、金融機関にとって、自己の利益にならないどころか、単なる費用の増加になるだけのこととして認識されているものですから、厳格に遵守されるとしても、それは表層にとどまり、規制の主旨に遡った理解が浸透しないどころか、形式的な規制遵守の裏で、実質的には規制の主旨を没却する行為が横行することになります。残念で不幸なことですが、それが過去の経験です。故に、こうした手法は放棄されざるを得なかったのです。
 
金融行政の目的を金融機関の利益誘因として設計することなど、技術的に可能なのでしょうか。
 
 金融庁の行政の対象は表面的には金融機関であるにしても、実質的な目的は金融機能を利用する国民、即ち金融機関の顧客の利益の保護なのですから、利益誘因は、論理的に、金融機関の利益が同時に顧客の利益になるようなものとして設計されるほかありません。金融庁は、このことを顧客との共通価値の創造と呼んでいます。
 この原理は、金融庁らしい言葉使いで表現されているにしても、少しも新奇なことではなく、近江商人の「三方よし」と同じことです。顧客の利益なくして業者の利益がないのは当然で、ならば、業者の利益追求の行動は必然的に顧客の利益の方向に誘導されるはずですから、結果的に、顧客が栄えて業者が栄えるので、社会全体が栄えることになる理屈です。
 
そのような理屈が金融界に通るなら、そもそも、なぜ金融庁が存在しなければならないのでしょうか。
 
 犯罪があるから警察が必要なのと同じように、金融機関の行為が国民の利益を損なう場合があるから金融庁がある、確かに、そう考えるほかありません。広く商業一般において、「三方よし」がいわれ続けているということは、それが普遍的に実践されていることではなくて、「三方よし」に反する事態の横行に対して矯正的な指導理念として機能しているからでしょう。金融庁が顧客との共通価値の創造を掲げることは、悲しい現実として、顧客の利益の犠牲のもとに自己の利益を追求する金融機関が存在するからにほかなりません。
 しかし、重要なのは、そうした現実において、誰が最終的な勝者になるのかということです。「三方よし」がいわれ続けてきた理由は、その実践こそ、事業の長期的な持続可能性の源泉であり、目先の利益に汲汲たるものが順次に淘汰されていくなかで、最終的な勝者として生き残る要諦だからです。金融庁も、金融機関に対して持続可能なビジネスモデルの構築を説くなかで、顧客との共通価値の創造を掲げているのです。
 
そうしますと、金融庁としては、長期の視点を欠いて目先の利益追求をしている金融機関は淘汰されると考えているのでしょうか。
 
 金融庁は公然と金融機関の淘汰を口にするわけですが、監督される立場の金融機関からすれば、強烈なことです。しかし、規制による強制を放棄した金融庁としては、淘汰は当然の帰結です。なぜなら、規制は画一的な最低基準を一律に課すことである以上、結果的に自由な競争を抑制する方向に働いて、最低線上にある金融機関を保護する効果をもってきたからです。
 それに対して、新しい行政手法では、優れた金融機関が成長し、そうでないところが淘汰されていくことにより、金融界全体としての機能の高度化を実現することが目指されているのです。金融庁の好きな片仮名の用語を使えば、従来の規制による手法は、ミニマムスタンダード、即ち最低基準を動かすにすぎないのに対して、新しい手法は、金融機関にベストプラクティス、即ち顧客との共通価値創造に向けた積極的な取り組みを促すことで、そこに競争による淘汰を通じた金融界の質的成長を実現するものなのです。
 
規制による強制を放棄したということは、金融庁が強権を行使して淘汰させることもできなくなったわけで、淘汰は競争を通じた自然淘汰でなければならない以上、競争自体が起きなければ金融庁の目的は実現できないのではないでしょうか。
 
 全ての金融機関が目先の利益追求に没頭している限り、そして、金融が本質的に規制業であって新規参入の障壁が高い以上、金融界全体として、顧客の、というよりも国民の利益に反した帰結を招いていても、自律的な改革は起き得ないし、そこを規制の強制によって変えようとしても、金融機関の一律的行動になるだけで、競争が生じないどころか、表層的な規制遵守のもとで規制の主旨が没却される、これが金融庁の直面した日本の現実です。日本の、というよりも、おそらくは、世界の金融規制当局が直面している現実です。
 故に、金融庁としては、下を向いて足元を見つめているので前が見えていない金融機関に対して、見ろよ青い空と呼びかけ、「三方よし」まで引き合いに出して、長期的に持続可能なビジネスモデルへの転換を促したのです。それは、いうまでもなく、規制による強制によって実現できることではないので、コンサルティング的な対話路線に転換したということです。
 そして、金融庁としては、その対話のなかで、長期的な視点にたった収益構造転換を促し、金融機関として、そこに利益誘因を見出すように仕向けてきたのです。そこには、いずれ、賢い金融機関から、順次、顧客との共通価値創造こそ自己の利益であるとの認識が広がっていき、顧客の利益の視点での健全な競争が始まるとの期待があるわけです。
 
その期待は余りにも楽観的にすぎないでしょうか。
 
 十分に現実的な期待だと思われます。例えば、金融庁の改革路線を象徴している言葉にフィデューシャリー・デューティーがあるのですが、これは、2014年9月に初めて登場してから短い期間で、急速に金融界の津々浦々に浸透しました。単なる聞きかじりの言葉としてではなく、その理念、即ち、金融機関は専らに顧客の利益のために働かなくてはならないという「三方よし」の理念、あるいは現在の金融庁の用語でいえば顧客本位という原則が浸透したということです。
 今や、金融機関として、フィデューシャリー・デューティーの徹底度を競う段階にまで進んできています。これは、おそらくは、金融庁の予想を超えた金融界の動きの速さと深さですが、現在の不毛な短期的利益追求の限界のなかで、客観情勢の厳しさが金融界の改革を後押ししていることに間違いなく、金融庁は適切な時期に適切な施策を実施しただけだともいえるでしょう。
 
仮に意識や思考の次元で変革が始まったとしても、そのことが直ちに行動の変革につながるとは限らないのではないでしょうか。
 
 利益誘因による改革の問題点は、改革の成果が利益として実現してこないと改革への誘因として機能せず、先に改革を断行しない限り利益の実現もないという循環の矛盾です。従って、理屈上は、施策として導入するためには、短期的な利益誘因として設計しなければならないわけですが、顧客との共通価値の創造は長期的な利益追求だという大きな矛盾があります。
 エンジンは起動すれば回転し、回転することで更に回転しますが、起動しない限り回転しないので、起動は外から別の仕組みで行うのです。今の金融行政は、敢えていえば、この起動させるための決定的な仕掛けを欠いているのかもしれません。
 
何か画期的な仕掛けを考え得るでしょうか。
 
 奇策はないでしょうし、そもそも、自然に変革が起動すると考えたとしても、必ずしも楽観的にすぎることはないのです。所詮は時間の問題です。しかし、行政課題の実現において時間は重要ですから、金融庁においては、変革の起爆剤になりそうなことを色々と工夫しているのでしょう。
 例えば、金融庁はベストプラクティスの紹介と普及といっています。つまり、ある金融機関での優れた取り組みを他の金融機関にも周知させることで、変革を加速させようという施策です。また、「見える化」という名のもとで、顧客の金融機関選別の合理化を推進しようともしています。これは、顧客との共通価値の創造について、その成果を金融機関自身が測定して公表するという施策ですが、これにより、顧客による金融機関の選別が進めば、優れたところは伸び、そうでないところは淘汰されることで、変革が進むという目論見です。
 
そうした施策は、エンジンを起動させる起爆剤というよりも、力なく起動したエンジンを励まして補助するものにすぎないのではないでしょうか。
 
 そうかもしれませんが、起爆剤としての奇策は考えにくいのです。無理に考えれば、新しい金融行政の根幹の哲学に矛盾することになります。つまり、何らかの強権の発動により、変革を強制するほかないからです。
 もはや、信仰しかないのかもしれません。顧客との共通価値の創造というビジネスモデルの成功について、全ての金融機関とまではいわないまでも、過半の金融機関が確信をもてば、変革は確実に起動しますが、その確信は、未だ成果が実現していない段階においては、信仰にも近い信念でなければならないはずです。
 信仰は、経験によって確信に替り、確信は更なる経験の蓄積により益々強化されていき、いずれ宗教的信仰から抜け出す、そもそも、これが資本主義の精神の確立過程ではなかったでしょうか。
 
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/02/22掲載「見ろよ青い空的な大きな言葉の効用について
2016/12/08掲載「神話の創造による成長戦略
2016/05/26掲載「金融機関にとっての規制遵守のインセンティブ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。