見ろよ青い空的な大きな言葉の効用について

見ろよ青い空的な大きな言葉の効用について

森本紀行
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難しい議論が白熱しているとき、突然、空を指し、見ろよ、青い空、白い雲、細かい話は、どうでもいいじゃないか、と軽く明るくぶち上げるのは、議論封じの戦術です。途方もなく大きなものに比較すれば、全ての差異は消滅するのです。差異にこそ意味があることを思えば、大きな言葉は常に空疎ですが、空疎だからこそ全てを無意味化する強力な働きがあるわけで、その濫用は甚だ危険であると同時に、その効用も絶大なのです。
 
 「だまって俺についてこい」という歌、これはアニメの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主題歌ですけれども、哲学的には恐るべきものです。
 なにしろ、金がない、彼女がいない、仕事がないという困難な人生の問題を、そのうちなんとかなるだろうと、簡単に一蹴して笑い飛ばしてしまうのですが、その論理は、比較対象として、青い空、白い雲、波の果て、水平線、あかね雲といった途方もなく大きなものをもちだすことで、人生の大きな悩みを無にも等しい極小の瑣事に転じることなのです。
 
言葉が大きい割には、内容は空疎ですね。
 
 人生の課題の比較対象として、空や海のような大きな言葉をもちだすことは、その言葉が大きいということだけに意味があるのであって、言葉の内容は空疎というよりも完全に無です。むしろ、内容がないからこそ、全てを無意味化することで、言葉の大きさが単純な力となって強く働くわけでしょう。
 こち亀の主題歌は、大きな言葉の使用としては、何の脈絡もなく完全に無意味なだけに、全てを害のない笑いに解消してしまうのですが、通常、こうした大きな言葉は、重要な意味を背後にもつかのように思われる状況と文脈で使われるので、微妙な問題を惹起しやすいのです。特に、深い意味があるにしても、その具体的内容が不明確な場合には、大きな抽象的な言葉の強い作用のもとで、具体的で大切なことを埋没させてしまう危険は深刻でしょう。
 
例えば、公共の福祉でしょうか。
 
 公共の福祉については、永遠に決着をみることなく、憲法学や法哲学で議論されていくのでしょうし、その議論のなかで、この大きな言葉に内包された小さな課題が明らかになっていけば、それでいいのです。学問の進歩とは、そもそも、そうしたものだと思われるのです。
 そして、事実、確かに進歩していることを示すのは、公共の福祉は、現在では、もはや、人権を超えたところにある社会全体の共通利益とは考えられていないことであって、この大きな言葉によっても、安易な人権の制限は認められなくなっていることです。そこには、個別の具体的状況に応じた丁寧な議論を長年にわたって積み上げてきた学問の成果があるのです。
 おそらくは、公共の福祉の問題は、それの何たるかを積極的に定めることではなく、その適用範囲を消極的に制限することが課題になるのでしょう。つまり、大きな言葉に埋没させてはいけないもの、個別具体的な小さなものを明らかにすることにこそ、真の課題があるのです。
 
企業経営においては、公共の福祉に該当するものが株主の利益でしょうが、そこには、大きな言葉としての同様な問題が潜むでしょうか。
 
 日本の「コーポレートガバナンス・コード」は、明らかに株主の利益を中核に構成されているとしても、そこには、顧客や従業員等の「株主以外のステークホルダーとの適切な協働」も謳われています。これは、もちろんのこと、ステークホルダーとの適切な協働がない限り、企業の持続的な成長はあり得ないのですから、それが最終的には株主の利益になるとの論理構成に基づくものです。
 従って、ここでは、株主の利益は、少しも大きな言葉として機能していない、即ち、他の経営の諸要素を無意味化して消し去るようなものとしては機能していないのです。これでは、大きな言葉としての力が弱すぎるようです。むしろ、コーポレートガバナンス改革を実現することが目的ならば、株主の利益が大きな言葉として他を圧倒して機能するような環境を整備したほうがよかったのではないでしょうか。
 実際、持続的な成長とか、中長期的な企業価値の向上といったときには、強い大きな言葉として、全てを究極的に株主の利益に収斂させる力としては働かず、弱い大きな言葉として、全てを曖昧模糊とさせ、現状を肯定する方向に機能する危険を避け得ないでしょう。表面的には、あるいは一時的には、株主の利益に反しても、中長期的には株主の利益になるといってしまえば、全てを正当化できるからです。
 実は、公共の福祉は、経済成長を社会全体の利益として最優先に位置付けてきた歴史のなかで、大きな言葉としての強力な意味をもっていたのであって、経済成長が国民全体の共通利益としての絶対的地位を失ったとき、それは機能しなくなり、むしろ弊害に着目されるようになったのです。そして、その後ろに隠れていた小さな多様な価値へと社会の関心が動き始めたときに、公共の福祉をめぐる議論は一気に輻輳化してきたのだと思われます。
 それに対して、株主の利益は、歴史的には、大きな言葉として強力な役割を演じたことがないのです。「株主以外のステークホルダーとの適切な協働」を深く考えるためには、ステークホルダーの利益が株主の利益の追求のもとで損なわれる事態が明らかになっていなければなりません。そのような事実を経験することによってしか、株主の利益を中核にした「株主以外のステークホルダーとの適切な協働」など確立し得ないはずです。
 
コーポレートガバナンス改革の先決問題として、株主の利益という単一価値への徹底的な収斂が必要だということでしょうか。
 
 まずは、株主の利益の追求が弊害を生むところまで、株主の利益の追求が徹底されるべきではないでしょうか。そのような改革を主導するものとして、株主の利益は、他の価値を圧倒する強力な大きな言葉として、機能させるべきではないでしょうか。
 そして、真のコーポレートガバナンス改革は、株主の利益の追求が生みだす弊害を克服するものとして、ひとつ上の次元に再確立されるべきなのです。経済成長という単一価値のもとで公共の福祉が強力に機能した後、価値の多様化によって、その克服が志向されてきたように。
 
その点、金融庁は大きな言葉の使い方が上手ですね。
 
 金融庁は、森信親長官のもとで、行政手法を高度化させてきたのですが、なかでも秀逸なのは、大きな言葉の巧みな使用です。代表例は、大成功を収めたフィデューシャリー・デューティーです。また、それを広義化した顧客本位や、顧客との共通価値の創造、あるいは、少し前のものでは、事業性評価があり、規制手法としては、対話とか動的な監督というのもあります。
 これらの言葉に共通していえるのは、どれも抽象的で具体的な意味がわかりにくいことです。わかりにくいわりには、非常に深遠な意味が籠められていることを予感させます。故に、足元の小さな利益にばかり気をとられ、また、表層的なルール遵守の徹底のなかでルールの意味を没却してきた金融機関に対して、施策として強い効果を発揮したのです。
 
つまり、金融機関に意味を考えさせたということですね。
 
 金融庁は、ルールからプリンシプルという名のもとで、金融庁が定めたルールの履行を金融機関に強制する手法を放棄して、金融機関が自分自身に自主ルールを課す自律原則に転換しています。このプリンシプルのもとで、例えば、フィデューシャリー・デューティーという具体的内容のないもの、いわば空疎なものがでてくると、金融機関は、その意味を自分の頭で理解して、自分自身の行動規範として具現化しなければならなくなります。
 ルールならば、その通りに遵守すればいいだけのことですから、金融機関は体を使いこそすれ、頭を使いません。故に、金融機関はルール遵守で馬鹿になりつつあったのです。そこで、金融庁は路線転換し、考えさせるようにしたわけです。実際、中身のない理念だけのフィデューシャリー・デューティーは、空虚で大きな言葉だからこそ、金融機関自身が具体的な内容を充填しなければならないように強制力が働いたのです。
 
しかし、そうはいっても、全く空疎ではどうしようもなく、何らかの指針が必要だったのではないでしょうか。
 
 それが金融機関の現状に対する厳しい指摘です。例えば、フィデューシャリー・デューティーについては、投資信託の販売と運用に関して、金融庁が問題視する事例を極めて厳しい口調で指摘しています。こうした指摘のもとでは、金融機関は、金融庁が本来あるべきであると考えているものを、容易に想像できます。
 従来のルールによる手法のもとでは、金融庁があるべきと考えるものがルール化されて提示されますが、プリンシプルによる手法のもとでは、フィデューシャリー・デューティーのような大きな言葉で指導理念的なものが謳われると同時に、金融庁があるべきではないと考えるものが具体的に提示され、金融機関自身が自分のあるべき姿を考えて自律的な規範に具現化するのです。
 
金融庁が強制するわけでもないのに、金融機関は自律的な規範を導入するでしょうか。
 
 事実として、フィデューシャリー・デューティーに限らず、ここ数年にわたって金融庁が用いてきた大きな言葉は、金融機関自身の手によって内容の充実が図られ、自律的な規範として定着しつつあります。もちろん、金融機関の数は多いのですから、取り組みの進展度に大きな開きがあるにしても、金融庁の意図したことは着実に成果を生みつつあります。
 なぜかといいますと、金融機関の側に利益誘因があるからだと思われます。実は、金融庁は、金融機関に対して、繰り返し中長期的に持続可能なビジネスモデルへの転換を促してきたのであって、その転換を促すものこそ、フィデューシャリー・デューティー等の大きな言葉だったのです。
 実際、金融機関の置かれた事業環境の見通しは極めて厳しいのです。従来のやり方を抜本的に転換しない限り、相当数の金融機関の淘汰は不可避な状況です。故に、誰も座して死を待つはずもなく、改革への機運は熟していたということです。
 そのとき、金融庁は、まずはフィデューシャリー・デューティーを掲げ、更に、それを広義化して顧客本位を打ち出したのです。ここに、金融庁の施策の新奇性がないことは明らかでしょう。なぜなら、金融に限らず、どの事業においても、事業構造の本質的な転換を図るとき、決定的に重要なことは顧客の視点だからです。
 
大きな言葉は、発想の転換を促すときに、有効な場合があるということですね。
 
 大きな言葉は、かつての公共の福祉のように、一つの価値への収斂を図るときに強力であり、強力であるが故に同時に危険です。また、発想の転換を促すときには、しばしば有効です。見ろよ青い空は、金も仕事も彼女もない人には、無意味ですが、地面を見つめて解を失った人には、発想の転換を促す意味があって有効なのです。
 
以上

 
 次回更新は、3月1日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/12/14掲載「金融庁のいう新たなコンプライアンスとは何か
2016/12/08掲載「神話の創造による成長戦略
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。