投資の常識への素朴な疑問に答えます

森本紀行
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ハイ・リスク、ハイ・リターンというのは、本当ですか。

 本当かどうかを論じる前に、簡単に反証をあげることができるでしょう。例えば、日本の株式市場。ハイ・リスクは間違いないですが、ハイ・リターンという事実はない。
 そもそも、ハイ・リスク、ハイ・リターンということの理論的背景について、根本的な誤解があるのだと思われます。もしも、リスクを損失の可能性と考えるならば(ほかに、どう考えようがあるのでしょうか)、損失確率を調整した後の期待収益率は、リスクにかかわらず、同じでなければならない。
 簡単な数値例をあげましょう。ある資産は、100が確実に(損失確率ゼロで)110になるものとし、別の資産は、50%の確率で90になり、50%の確率で130になるとしましょう。この二つ、損失確率を調整すると、期待収益率は同じになる。つまり、二つの理論的な価値は、同じなのです。
 でも、これは、おかしいでしょう。期待収益率が同じならば、誰だって、確実なほうを選ぶでしょう。実は、ハイ・リスク、ハイ・リターンというのは、まさに、この論点をいっているのです。つまり、投資家の資産選択における選好についての、理論的背景なのです。
 もしも、投資家が、同じ期待収益ならば損失確率の小さなものを選び、損失確率も期待収益も同じならば予想損失額の小さなものも選ぶとしたら、多数の投資家の同様な選好に基づく投資行動が、資産の価格形成に影響を与えることになるはずです。その結果、リスクが大きな資産は、相対的に安い価格で取引される。つまり、期待収益率が高くなるように価格形成されるはずだ、というのが理論です。
 注意しなければならないのは、ハイ・リスク、ハイ・リターンというのは、投資家の資産選択における選好に関する仮定であり、その仮定に基づく資産価格形成の理論的要請なのだと、ということです。
 経済事象を数学的に実証することはできません。統計的調査により、ハイ・リスク、ハイ・リターンの成り立つ場合を示すことはできるでしょう。しかし、同時に、日本の株式市場のように、成り立たない場合も示すことができます。
 もしかすると、機関投資家(何らかの社会的責任を負った投資主体)の場合は、規範的要請と考えるのが、一番いいのかもしれません。社会的責任の果たし方の一つは、合理的に説明できることですから、ハイ・リスクな投資対象に対しては、ハイ・リターンを期待しなければならない、そうでなければ、投資判断の合理性が保てない、と、そのように理解すべきなのでしょう。


そうだとすると、リスクをとったからといって、収益があがるわけではないのですね。リスクをとる以上、収益があがらないと、合理性を欠く、というか、要は、おかしいだろう、ということですね。

 その通りです。当たり前でしょう。リスクの大きい投資対象は、リスクが大きいという、そのことから自動的に、期待収益率も高い、ということが導かれるのではありません。リスクが大きいのならば、その見返りとしての高い期待収益率が見込めるかぎりでのみ、つまり十分に低い価格で投資できるという条件でのみ、投資可能になるのだということ、これ、全くもって、当然すぎるほど当然なことじゃないですか。


ということは、期待収益率は変動するのですね。期待収益率の高いときに投資するということは、タイミングを判断しなければなりませんね。でも、理論は、タイミングを狙うことを否定しているのでは。

 タイミングをとる、というと、いきなり、相場というか、投機的な感じになりますね。そうではなくて、いつでも、投資対象の価値の判断をしなければならない、といっているにすぎません。
 例えば、株式と債券の比較。株式のほうが高リスクだから、株式の期待収益率のほうが高くなくてはならない、というのは株式投資が可能になる条件です。その条件が整わない限り、株式投資はできない。この株式の投資価値にかかわる判断は、株式の投資タイミングを判断することとは、異なります。なお、4月22日のコラムは、その名もずばり、「株式の期待収益率が債券の期待収益率を上回るための条件について」です。ぜひ、ご参照ください。


そうすると、例えば、株式と債券の比率を決めておいて、その比率を長期的に維持するようなことが、運用の基本であるようにいわれますが、これも、必ずしも、理論的には正しくない、ということになるのでしょうか。

 二つの論点があります。第一に、資産運用の方針は長期的に一貫していなければならない、これは当然としても、そのことと、同じ資産構成の維持とが、直ちに同じになるのではない、ということ。第二に、長期的とは、長期間、同じことをすれば、結果的に収益があがる、ということでは、まさか、ないだろうということ。長期の視点に立って、変えるべきは、適時、変える。これが、本当の長期運用です。
 資産構成というのは、資産運用の一つの技術的要素です。資産運用の一貫性というような、高度に哲学的なものが、そのような技術的問題の地平にあるとは、私には、思えないのです。一貫性というのは、投資家価値判断の枠組み、視点の置き方、そのようなところに、あるべきでしょう。
 例えば、ハイ・リスク、 ハイ・リターンというのも、先ほど述べましたように、規範的要請と考えるならば、投資の一貫性を支える基本哲学になるのだと思います。繰り返しますが、規範的要請というのは、ハイ・リスクな投資対象に対しては、ハイ・リターンを期待しなければならない、その期待がもてないならば、投資はできない、という規律です。


理屈上、全てのリスクある投資対象について、十分な期待収益率を見込めない、そのような局面も、あり得ますよね。そういう場合は、資産の全部を、現金にしてしまってよい、ということでしょうか。理論は、現金をもつことに、否定的のようですが。

 投資対象が、どこにも見あたらない、というような極端な状況は、考えにくいですが、理屈上は、もしも、そんなことになれば、あえて運用する必要はないのです。全部現金でいいでしょう。
 しかし、世界の資本市場は、想像もつかないほどに、広く、大きく、深いことを、忘れないでください。
ここで、第二の規範を加えましょう。地の果てまで探すという努力。
 料理は、冷蔵庫の中の「ありもの」から構想しても、いいものはできない。大きな市場で、多様な旬の素材を見て、素材と対話する(と、本当に、そのように語った、腕のいい板前を、私は知っていますが)ことで、おいしい料理の構想が生まれてくる。そういうものでしょう。資産運用も同じです。
 この第二の規範から導かれることは、確かに現金を保有してもいいのですが、その場合には、現金以上に魅力ある投資対象はないのだということを、証明しなければならない。そのためには、全世界の全ての投資機会を精査しなければならない。もしも、そのような努力をすれば、逆に、必ずや、何らかの投資対象が見つかるはずでしょう。


まとめますと、ハイ・リターンを要求する厳格な価値判断と、投資機会を発見する努力、この二つが投資の基本になるということですね。しかし、両方とも、厳しすぎやしませんか。普通の人にも実践可能なものでしょうか。

 もちろんです。普通の人の常識の論理の延長に、論理的に可能になることです。常識の論理を離れて、特殊な理論があるわけではない。しかし、時間切れです。続きは、次回にしましょう。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。