「ベンチャー企業の生成と発展」
第1回『起業前夜-プロレスラー三沢光晴の死-』

山本亮二郎
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
6月13日、株式会社プロレスリング・ノア(以下、ノア)の社長であり、現役のレスラーでもあった三沢光晴氏(享年46歳、以下敬称略)が、試合中にバックドロップを受けた直後、頸髄離断で心肺停止となり、そのまま亡くなった。三沢はこれまで数々の激闘を越え、栄冠を獲得し、受身の天才と呼ばれどんなに危険な技も決して逃げずに受け、そして必ず立ち上がってきたのだが、満身創痍の体には受け止められる最後の技だったのかもしれない。
 7月4日には、ノア本社のあるディファ有明で「お別れの会」が営まれ、当初見込まれていた5千人を遥かに超える2万6千人ものファンと関係者が、6時間以上にもわたって何キロも列をなした。妥協を許さない徹底したファイトスタイルとあわせ、無口だが愛嬌があり、病に倒れたかつての仲間に興行収入を全額贈ったという男気溢れるエピソードなど、その人柄も多くのファンに愛されたのだろう。面識もない人物の死に際してそのように思うことはこれまで一度もなかったが、できればお別れとお礼を言いたいと思い、私も献花の列に加わった。

私自身、2003年5月に独立する前後、何がきっかけであったか今はもう定かでないが、ノアの試合を時々観戦した。遠くに見える小さなリングからは、テレビ中継と違いアナウンサーや解説の音声のかわりに、「バタン、バタン」という選手の足音やマットに倒れる乾いた音が聞こえる。場内が次第に興奮と歓声、選手の叫びに包まれると、起業前後の不安と高揚が会場の雰囲気にシンクロするように、体中に勇気が漲った。文字通り体を張って報酬を得るプロレスラーは、どこか起業家に似ているようにも感じた。中でもノアは、ベンチャー企業そのものでもある。

三沢は、高校卒業と同時にジャイアント馬場さん率いるメジャープロレス団体「全日本プロレス」に入門し、絶対的なエースに上り詰めると、馬場さん亡き後の1999年5月には36歳で同社社長に就任する。しかし、「若手は先輩と同じ技や大技を出してはいけない」というような古い考えのオーナー側と確執が起き、2000年5月に社長を解任されると、同時に取締役も辞任する。そして、自ら理想とするプロレスを求め、同年8月、三沢を慕って全日本から離脱した24人ものトップレスラーとともに、ノア旗揚げ戦を成功させる。翌年には、日本テレビでの放映が開始され、早くも日本武道館で興行するまでになる。
 ちょうどその頃、団体設立からおよそ1年後に行われたあるインタビューで、全日本プロレス離脱当時について聞かれると、それまでの穏やかな口調が一転して激しくなったという。

「全日本を辞めても契約で出なきゃいけない興行があって、入場の時に『裏切り者!』って聞こえるんですよ。つかまえて聞きたかった。『あなたにとって裏切りとは何ですか』って。ファンは大切だけど、その人の思い込みに何でオレが従わなければいけないんだ。オレの人生をその人が保証してくれるのか。オレは金で動いたわけではない、自分の意志で辞めたんだって言いたかった」(日刊スポーツ2001年7月1日)。

ここには、純粋に起業の真理が語られていると思う。理想を追い求める姿、その結果起こる古巣との確執、決断、ファン(顧客)との別れ。ベンチャーの起業には勿論さまざまなケースがあり、全てが同じではないが、短い受け答えの中に「起業前夜」がそのまま詰まっている。
 資金的にも、全日本プロレスの殆どの選手が移籍してきてしまったため、立ち上げ直後のノアは選手たちに給料を払えず、事務所を借りる金も電話を引く金もなかったという。まさにベンチャーそのものである。

一流の練習環境が整い、資金力もある全日本プロレスというメジャー団体に所属し、早くからその才能を開花させ、長らくエースの座に君臨し社長まで務めた三沢のような大レスラーでも、起業直後には苦労や混乱が絶えない。最後には現実に命まで落としてしまうほど、起業とは命がけの業である。一方、三沢ほどの大レスラーによる、ノアほどの大掛かりな新団体設立ではなかったとしても、プロレスラーの独立やインディーズ団体の設立はそれほど珍しいことではない。「三沢」でない彼らは、一体どのようにして起業の成功をつかむのだろうか。実は、私たちの関心の多くはそこにある。

言い方を変えると、まだ大レスラーになる前の、たとえば20代の三沢が、ノアを設立し、成功させることは可能であろうか。

月に一度更新する当コラムでは、経験も、実力も、資金も、何もない若者のスタートアップに多く立ち会ってきた投資家の立場を通して、また、「無名選手」として起業した当社自身の経験も踏まえ、起業後に出会うあらゆることを可能な限り記述し尽くすことで、未来永劫続くであろう無名の若者の気迫溢れる挑戦に、幾ばくかでも資することができればと思う。そして、商売として、ファンドマネジメントとして、そのフィールドを対象とすることの合理性も明らかにしていきたい。


以上



■関連項目■
山本亮二郎氏のインタビュー記事はこちら

山本亮二郎

山本亮二郎(やまもとりょうじろう)

PE&HR株式会社代表取締役

1968年生まれ。早稲田大学第二文学部社会専修卒業。株式会社インテリジェンスなどを経て、フューチャーベンチャーキャピタル株式会社(FVC)入社。アーリーステージ中心に投資を行う。創業期に投資し、その後取締役を務めた21LADYと夢の街創造委員会が株式公開(IPO)を果たす。また、インテリジェンスとFVCには社員株主として出資し、両社とも在職中にIPOを果たす。2003年5月、「資本」と「人材」の両面から企業の成長発展に貢献するという理念を掲げ、PE&HR株式会社を設立、代表取締役に就任。「若手起業家のための投資事業有限責任組合」、「Social Entrepreneur投資事業有限責任組合」、「関西インキュベーション投資事業有限責任組合」を設立。現在、投資先企業4社の社外取締役を務める。
明治大学、大阪市立大学大学院、東京経済大学、厚生労働省大学等委託訓練講座等で講師を務める。