金融庁を超えてしまった金融庁

金融庁を超えてしまった金融庁

森本紀行
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金融庁が11月10日に公表した2017事務年度の金融行政方針には、なんと「金融庁の所管にとらわれず」という異例な記述があります。金融庁として異例というよりも、霞が関の官僚機構全体としてみても所管を超えることは前代未聞であり、その非常識ともいえる大胆さには驚愕を禁じ得ません。さても、金融庁を超えてしまった金融庁の真意は何か。
 
 金融庁の森信親長官は、大胆かつ強力に改革を主導してきただけに、そしてまた、金融機関の改革の前提として、金融庁自身の抜本的な構造改革も断行してきただけに、金融界としては、いかに新奇な施策が打ち出されようとも、もはや、驚くこともないのです。しかし、さすがに「金融庁の所管にとらわれず」に金融行政が推進されるとなると、驚愕せざるを得ないのです。
 しかし、「金融庁の所管にとらわれず」と金融庁の公式文書に文字として記載されたからこそ驚くにしても、実態としての金融行政が金融庁の所管を超えつつあったことは、ここ数年来、明らかであったのです。それは、金融行政の目的として経済の持続的成長と国民の厚生の増大を掲げたときに、金融機関を監督する官庁としての役割を超えて、国民の利益の視点で金融機能を高度化する官庁への転換が宣言されたのと同じことだったからです。
 
金融機能を提供する金融機関の視点から、金融機能を利用する国民の視点への転換ですね。
 
 金融庁が金融機関の行為を規制し、その業務運営を監督しなければならないのは、金融機関を利用する国民の利益を守るためです。しかし、規制当局として、直接に国民に接することができず、金融機関だけを相手にするほかないなかで、真に国民の利益の視点にたてるかどうかは、大きな疑問です。
 むしろ、規制当局は、顧客を直接にみることなく、金融機関の目を通してみることにより、顧客を支配して情報の優位を確立している金融機関の側に誘導されて、意図せずして、顧客の利益よりも金融機関の利益を守る方向に行動してしまう危険すらあるといえるでしょう。それが有名な規制の虜と呼ばれる事態です。
 そこで、規制の虜を回避するために、金融規制のあり方としては、顧客の利益の保護のための厳格な外形基準を定め、その画一的な遵守を一方的に求めて徹底させることで、金融機関との直接的な交渉を極力行わないようにすべきだと考えられてきました。これが金融庁の森信親長官のいう「静的な規制」のあり方です。
 ところが、「静的な規制」のもとでも、別な形で規制の虜と同じ弊害が発生することが知られてきました。つまり、金融機関のほうが知識と経験と能力の面で規制当局に圧倒的に優越することは動かし得ない事実であって、故に、金融機関は、いとも簡単に、形式的には完全に規制を遵守するなかで、実質的には著しく規制の主旨に反することを工夫してしまうわけです。しかも、規制当局としては、問題事象が顕在化するまでは事態の進行を知り得ないので、未然に防止することもできないのです。
 
そこで、森長官は「動的な監督」に転じたのですね。
 
 森長官のいう「動的な監督」を煎じ詰めれば、対話という二文字に収斂しますが、この対話は、字義通りに、対等な二者間の意見交換と解すべきものです。
 規制の虜の真因は、規制当局が権限を翳して高圧的姿勢のもとで問い詰めることから、逆に実務面の無知を曝け出す結果となり、面従腹背の金融機関に巧妙に絡め捕られてしまうことにあります。同時に、規制当局が規制の真の目的を忘れて形式的規制遵守に関心を集中してしまうことも大きな要因だと考えられます。
 それに対して、森長官のいう対話においては、規制目的である経済の持続的成長と国民の厚生の増大を常に念頭におきながら、顧客の真の利益の視点にたって、金融機関が顧客との共通価値を創造するために何ができるのかということについて建設的な意見交換を行うことで、より真実に近い顧客の姿を捉えようとするのです。
 つまり、規制には、規制遵守の反対効果として、規制を遵守してさえいれば金融機関の特権的地位が保護されてしまうという強い副作用があり、その副作用が勝ってしまう事態が規制の虜なのですが、対話においては、規制目的へと常に遡求することで副作用の排除を狙っているのです。
 
そうしますと、金融機関の特権的地位が揺らぐこともあり得るわけですか。
 
 金融庁のいう「金融庁の所管にとらわれず」は、より正確には、金融庁が所管する金融機関の既定の業務範囲に限定しないで、金融行政の目的である経済の持続的成長と国民の厚生の増大のために、金融機能の高度化を図るべく、広く高い視点のもとで総合的な検討を行うという意味に解すべきでしょう。その結果としては、当然至極のことながら、現にある金融機関の業務範囲の見直しという方向と、現在は金融機関に認定されていない業者の新規参入を認める方向が生じると思われます。
 なかでも、後者の方向性は極めて微妙な問題を内包すると考えられます。なぜなら、理論的には、新規事業を非金融業として構成し、金融庁の所管の外に、即ち金融規制の外に出す方向と、金融業のなかに構成し、新たな規制の枠組みのもとで金融庁の所管のなかに包摂する方向が考えられるわけですが、どちらにしても、現にある金融機関の既得の特権的領域は崩壊するだろうからです。しかし、それが国民の利益ならば躊躇しないという姿勢の表明こそ、「金融庁の所管にとらわれず」の意味でしょう。
 
具体的には、いわゆるフィンテックの領域でしょうか。
 
 「金融庁の所管にとらわれず」は、例えば、金融庁の所管外である企業年金の資産運用に言及があるように、金融の全ての分野に適用があるのだと思われますが、フィンテックが強く念頭におかれていることは間違いありません。
 例えば、フィンテックの重要分野として決済があるのですが、預金と決済機能が分離されれば、銀行等の特権業務として預金があり、預金に不可分に結合したものとして決済があるという構造が壊れますから、銀行等に与える影響は甚大なものになります。しかも、分離独立した決済が金融機能であるかどうかについての本質的な議論も不可避になりますから、「金融庁の所管にとらわれず」に検討しなければならないことは自明です。
 
仮に決済が金融機能だとしても、銀行等の独占が崩壊することは間違いないですね。
 
 だからこそ、金融行政方針のなかでは、「業態別の法体系から機能別・横断的な法体系への見直しの検討」という項目をたてて、法体系にまで遡った根源的な改革に言及されているのです。つまり、決済は、現状、金融機能として正面から法制度のなかに位置づけられているわけではなく、銀行等の預金取扱金融機関を律する法体系のなかに取り込まれている関係上、法体系を変えない限り本質的な改革はできないのです。
 また、業態別の法体系になっていることは、規制の虜の重要な原因をなしていることも間違いありません。銀行等の業態のあり方を議論するなかで決済機能をとりあげても、業態のなかに特権として確保された機能として検討する枠組みから脱却することは困難であって、意図せずして銀行等の既得権を保護することになりかねないからです。
 
そうしますと、金融庁の現在の組織構成も変えないといけないのではないでしょうか。
 
 金融庁の構造は、当然のことながら、法体系の構造を映したものになっています。ですから、業態別に、例えば、主要銀行を所掌する銀行一課、地方銀行を所掌する銀行二課というふうになっているのであって、機能別に、預金課、決済課、融資課等があるのではありません。こうした構造も、規制の虜の温床になり得ることは論を待ちません。銀行だけを担当する金融庁の組織と銀行界との間には、密室の関係ができかねないからです。
 それに対して、法体系が機能別に移行すれば、金融庁としても機能別の組織に変更することになるのでしょうから、決済機能を所掌する部署ができて、そこで、金融の全業態を横断的に、また金融の外からの新規参入業者も含めて、国民と産業界の利益の視点で、制度の設計と規制のあり方が検討されていくのでしょう。
 
資産運用という金融機能を軸にすれば、当然に、企業年金の資産運用も金融庁の領域に入ってくるということですね。
 
 金融行政方針のなかで、厚生労働省の所管であるにもかかわらず、「金融庁の所管にとらわれず」に、「企業年金については、母体企業が自社の企業年金の専門性を高めるための人事面や運営面での取組みを強化することなどが期待されるところであり、このための方策について検討を行う」と述べたことは、資産運用という重要な金融機能を、業態や規制の枠組みにとらわれることなく、横断的にとりあげる主旨であることは間違いないと思われます。
 
しかし、法体系の転換が完了するまでは、金融庁の行おうとしていることは、現行法上の金融庁の権限を越えてしまうのではないでしょうか。
 
 その点については、おそらくは、金融界の水面下には、根強い金融庁批判、というより森長官批判があるのでしょう。金融行政方針にも、それを意識したような記述があります。例えば、「外部有識者によるチェック機能の強化を含め組織のガバナンスを強化した上で、金融庁側の思い込みなどで悪しき裁量行政に陥らないような金融機関との対話の枠組みや、金融行政に対して外部からの提言・批判が反映される仕組みも整えていく」などという言及です。
 
いずれにしても、最後は国民の審判ですね。
 
 金融行政方針には、高らかに「国家公務員として最も重要なことは、「国民のため、国益のために働く」ことである」と宣言されてあります。そして、金融庁職員に対して、「省益を追わず、国益を追う」ことが強く求められているのです。「国民のため、国益のために」行動するとき、金融庁の「省益」は顧みられないのであって、故に必然的に、「金融庁の所管にとらわれず」に提言し、行動することになるのです。
 金融庁の「省益」を追うことは、典型的に、規制の虜になることで、金融機関の利益を保護する事態に陥ることです。それに対して、「国益」を追うことは、金融機関の利益に反しても、それが「国民のため」ならば、躊躇なく断行することです。その結果、金融機関の反発を招いても、真に国民の利益に適うことならば、国民は金融庁と共にあるのであって、国民の利益に反して抵抗勢力に堕した金融機関は淘汰されるだけのことです。
 
以上

 
 次回更新は、年末年始の休載を挟んで、新年1月11日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/12/22掲載「金融機関監督庁から金融機能強化庁へ
2016/06/16掲載「金融における「動的な監督」とリスクアペタイトフレームワーク
2015/10/01掲載「「国益への貢献」を掲げた金融庁の英断
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。