顧客に甘える金融機関は淘汰される

顧客に甘える金融機関は淘汰される

森本紀行
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顧客から信頼されること、そして、その信頼を守ること、これは全ての商売の基本ですが、目に見える実物を扱うのではない金融においては、なおさらに大切なことです。信頼を裏切ることはできないという規範意識が弛緩し、いつしか信頼に甘え、はては信頼を利用するに至った金融機関は直ちに淘汰される、そうでなければ顧客の利益は守られないのではないでしょうか。
 
 信頼関係は、商業を成立させる基本です。業者として、顧客との間に何らかの信頼関係を先行的に成立させているのでなければ、取引関係に至ることはなく、取引を通じて信頼に確かに応えることで、信頼関係が強化され、取引が反復継続されて、そこに強固な顧客基盤の形成をみるのです。
 こうして、商業においては、信頼に応えることは、道徳や倫理の問題である前に、事業を成功に導く基本なのです。それを仮に商業道徳と呼ぶとしても、信頼を裏切ることは、道徳的に批判されることであるよりも、事業を崩壊に導くものとして商業的に愚かしいことであるにすぎないわけです。顧客が業者に与えた信頼は、業者がもつ利益誘因によって守られる、これが商業の基本です。
 
しかし、顧客の利益を守るためには、その商業の基本だけでは不十分な領域もあるのではないでしょうか。
 
 規制というのは、商業の一般原則だけでは顧客の利益が十分に守られないと考えられる分野に導入されるものです。規制のもとでは、業者は顧客の利益の視点にたった行為規範を強制されるわけです。そして、いうまでもなく、金融は代表的な規制業なのです。
 さて、規制につきもののこととして、参入制限があります。背景には、顧客の信頼に堪え得るだけの能力を有することを資格要件にする、競争を制限して業者の収益基盤を確保して供給の安定化を図る、許認可制あるいは登録制にして監督官庁の監視下に置く等の理由が考えられるでしょう。
 
参入制限は、同時に競争制限になりますから、かえって顧客の不利益ではないでしょうか。
 
 それは、規制をめぐる永遠の難問です。競争制限による規制の弊害が顕著になれば、規制緩和と称して参入制限が撤廃され、過当競争による弊害が生じれば、参入制限が設けられる、こうした両極への振れと揺り戻しは避け得ないことです。しかし、単に振れているだけではなくて、振れながら進化していっているのです。特に日本の金融においては、近時、規制手法の高度化が顕著です。
 
今の日本の金融規制は、緩和方向でしょうか、強化方向でしょうか。
 
 金融庁の森信親長官のもとで、行政手法の抜本的転換がなされて規制という概念自体が大きく変わりましたから、もはや、伝統的な規制のあり方を前提にして、緩和とか強化とかいうことはできなくなったように思われます。なかでも顕著なのは、第一に、参入制限を緩和することなく、徹底した競争原理の導入を図っていることであり、第二に、金融機関の行為を強制することなく、規制目的の貫徹を金融機関に求めていることです。
 この金融庁の行政手法を解釈するに、その根底には、金融もまた商業であり、それを律するものは経済誘因に基づく自由競争による金融機能の高度化であるべきだという徹底した市場原理の哲学があるのですが、同時に、金融機能の高度な社会性を前提にして、金融機関に自律的な倫理規範の遵守を求める側面もあるわけです。
 
市場原理の徹底ということは、金融庁は、規制による競争制限の弊害があるとの現状認識をもっているのでしょうか。
 
 それは間違いないでしょう。例えば、金融庁の重点施策である顧客本位の徹底は、少なくとも現時点では資産運用関連業務に特定して具現化されているものですが、そこでは競争を通じた市場原理による機能の高度化が志向されているのであって、裏を返せば、規制業としての金融機関の社会的信用に基づく非競争的な力の優越が顧客の不利益を生んでいるとの金融庁の認識が背後にあるはずです。
 
非競争的な金融機関の力の優越とは、どういうことでしょうか。
 
 資産運用関連業務に関する限り、金融機関に優越的な地位があるとか、その濫用があるとかいうことではありません。そうではなくて、顧客からの信頼の悪用と看做されることが横行しているということです。これについては、森長官が4月7日に行った講演、金融界を震撼させたことで今となっては有名になった講演から引用するのが一番いいでしょう。長官は次のように述べたのです。
 「ここ数年、友人から、「母親が亡くなり遺品の整理をしていると、最近購入したと思われる、お年寄りには到底不向きのハイリスクで複雑な投信が、何本も出てきた」という苦情を聞くことがよくあります。もしかすると、そうした投信を売った営業員の方は、親のところにあまり顔を見せない子供たちに代わって、お母様の話し相手になっていたのかもしれませんが、これにより子供たちの当該金融グループに対する評価はどうなったでしょうか?こうした営業は長い目で見て顧客との信頼関係を構築する観点から本当にプラスでしょうか?」
 この発言の裏には、金融界の実態として、まともな方法では売れるはずがないと思われる投資信託でも、顧客の真の利益に適わないと思われる投資信託でも、現に売れている事実があり、しかも、販売に関する法令違反等は皆無に近いという事実からして、金融機関は強引に騙すようにして販売しているのではないと推定される現実があるのです。
 
長官は顧客への甘えを指摘しているのですね。
 
 投資信託は、顧客の資産形成需要との関連において、正しく適合する類型が特定され、そのなかから最良のものが選択されて、合理的な費用構造のもとで販売されなくてはならない、これが金融庁のいう顧客本位の意味ですが、現実は全く違っていて、森長官は、顧客に甘えて、その信頼があることを利用して、顧客の利益のためというよりも、金融機関自身の利益にとって都合のいいものが販売されていることを指摘しているのです。
 こうして、森長官は金融機能の社会性を強く主張されるわけですが、注目すべきことは、金融機関の対応を倫理的な視点から直接に批判していないことです。そうではなくて、金融機関の顧客基盤、即ち商業をなりたたせる基盤のことをいっているのです。つまり、高齢者の善意に甘えて、信頼されていることを利用して、金融知識の不足につけこむことは短期的な利益になるとしても、中長期的には、次世代からの信頼を喪失して、顧客基盤が毀損することによる損失が大きくなる可能性があると指摘しているのです。
 ここには、森長官の高度な金融行政の哲学があるのです。金融庁は、規制による直接的な介入を行わず、むしろ金融機関に商業の王道を歩むことを促す、そうすれば、金融機関にして、合理的経営行動をとる限り、中長期的な企業価値の向上を目指すべく顧客との共通価値の創出を志向する、その結果として、金融の社会的機能の高度化が実現する、これが森長官の論理です。
 
顧客本位とは、顧客に対する甘えを排し、商業の王道を貫くことなのですね。
 
 金融庁から顧客本位の概念が初めて示されたのは、もう二年半以上も前ですが、そのときは、英米法の言葉を借りてフィデューシャリー・デューティーの徹底と表現されていたのです。このフィデューシャリー・デューティーというのは、敢えて日本語に訳せば、信認されたものが負う高度な義務となります。信認は、こなれない日本語ですが、高度な信頼というほどの意味です。
 つまり、投資信託は顧客からの信頼を前提にしているものであって、法律の問題以前に社会通念として、その事業にかかわるものは、顧客に対して、決して信頼を裏切ってはならないという義務を負うはずで、事実、英米法の文化では、信頼を高度化して信認に高め、義務を高度化してフィデューシャリー・デューティーという厳格な法規範を導いているわけですから、金融庁は、日本にも、理念的には同じ理屈が通るべきだと考えたのです。
 それにしても、英米法の文化では信頼から高度な責務を導き、日本では信頼から低度な甘えを導く、この規範意識の格差については深く考えさせるものがあって、この日本の現実を法令等の強制力のある規制によって是正することは可能でも、それでは本質的な解決にならない、むしろ、金融機関の自律的行動を促し、新たな規範意識を醸成していかなければならない、これが現在の金融庁を動かしている高度な問題意識なのです。
 そして、金融機関の自律的行動を促すためには利益誘因によるほかないわけで、それが中長期的な企業価値の向上を図ること、即ち商業の王道の貫徹を促すことに帰結しているのです。
 
顧客からの信頼について、それを守る金融機関は成長し、それに甘える金融機関は淘汰される、金融庁としては、そういう社会の原理を確立したいということですか。
 
 淘汰という言葉を金融庁長官が口にするというのは、金融機関のものからすれば、恐ろしいことですが、森長官は、顧客本位に徹することのできない金融機関は淘汰されるべきで、淘汰を促す環境の整備こそ、金融庁の仕事である旨、公言しています。
 もちろん、長官の真意としては、淘汰を望んでいるのではなくて、淘汰されないように自律的な改革が進むことを望んでいるのでしょうけれども、仮に淘汰が起きても、それは長官の発言とは全く関係のないことで、単に商業の道を誤って顧客の離反を招き、市場原理によって淘汰されるだけのことです。
 
顧客への甘えは、何も投資信託に限らず、金融の全ての領域にあるのではないですか。
 
 投資信託に限らず、個人部門の全ての領域で、また法人部門の全ての領域で、顧客からの信頼に対する甘えは蔓延しているのでしょう。単なる付き合いとして、習慣的に断れないものとして、従来からの申し送りとしてなされている金融取引は、極めて多いはずです。それらは、是正が厳格に要求される優越的な地位の濫用とまでは認定され得ないが故に、かえって野放しになるのです。
 顧客本位を資産運用関連業務に限定してとらえるような金融機関は、それこそ、淘汰されるでしょうし、淘汰されるべきです。今こそ、金融機関は、全業務分野において、顧客本位に示された理念に基づく改革を断行しなければならないのです。
 
顧客への甘えは、金融だけでなく、日本全体の根源的問題ではないでしょうか。
 
 顧客への甘えについては、金融だけの特殊な問題ではなく、全産業の全企業の普通の問題でしょう。そして、顧客に対する甘えだけではなく、従業員に対する甘えも深刻なのではないでしょうか。政府が推進する働き方改革の真の課題は、おそらくは、従業員に対する甘えの是正です。
 改めて普遍的な問いとして真剣に問われなくてはなりません、なぜ英米法の文化では信頼から高度な責務を導き、なぜ日本では信頼から低度な甘えを導くのかと。その答えの先に、日本の再生と成長戦略があるのです。
 
以上

 
 次回更新は、7月6日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論
2015/11/12掲載「金融におけるフィデューシャリー関係の成立
2015/10/29掲載「フィデューシャリー・デューティーを規制と考える金融機関に未来はない
2015/10/15掲載「フィデューシャリー・デューティーの長く広い射程

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。