成長なきところ投資なし

成長なきところ投資なし

森本紀行
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投資が投資としての収益を生むためには、投資対象において、何か新たなる価値が創出されるのでなければなりません。そもそも、投資収益とは、新たに創出される価値の配分だからです。もしも、成長が新たなる価値の創出のことならば、投資の本質は成長のための原資の供給だということになりますね。
 
 成長がなくとも、金融は成り立つはずです。新たなる価値の創出はなくとも、価値の創出自体はあるだろうからです。それはそうですよね、成長のない平らな世の中でも、世の中がまわり、人が暮らし生活する限り、お金もまわっているわけで、まわるお金には利息が発生するに違いないのです。
 しかし、平らな世界は、将来の見越せる世界です。安定ということは、予見可能性が高いということですから、金融の技法としては、融資で十分です。というよりも、事前に期日と金利が約定される融資が、予見可能性の高い状況においては、適当な金融手法というべきでしょう。
 投資と融資との違いは、前提としている不確実性の程度です。不確実性の小さい領域では、条件が事前に決まっている融資が相応しいですが、不確実性の大きな領域では、事前に条件を定めることが困難なので、極めて条件の緩い手法、いわば出世払いのような技法が必要になります。それが株式による資金調達であり、一般に、投資といえば、株式による資金調達を意味するのだろうと思われます。
 

投資とは、将来の不確実性への賭けの要素を含んだ金融手法ということになりますね。
 
 不確実性の大きな将来について、融資という条件の決まった金融手法を適用するならば、融資の性格が著しく不安定になる、即ち比較的高い確率で、何らかの債務不履行が発生する、あるいは不履行を回避する目的での条件変更が必要になります。いわゆる不良債権になりやすいわけです。その点、株式というものは、資金調達とはいっても、債務性がない、即ち弁済を前提としておらず、配当も経営判断に任されているので、不確実性に対して柔軟に対応できます。
 いうまでもないですが、そのような不確実性に対応するだけでは、資金を調達する企業にとっては一種の危険準備として甚だ便利で都合がいいのですが、投資家の立場からすると、慈善事業への参加ではないのですから、単なる出世払いの契約などに意味はありません。要は、不確実性への賭けとはいっても、その賭けが成長につながるのでなければ、株式投資は成り立ち得ないのです。故に、成長なきところ投資なしです。
 

株式に元利支払いの定めがないということは、企業の立場からいえば、投資収益還元までの大きな時間的な猶予を投資家から貰うということですから、その猶予期間中に何としても成長戦略を実現しないといけないということですね。
 
 株式というのは、投資対象としては非常に緩やかな権利にすぎないので、株主の地位は不安定なものです。金融の仕組みとしては、不確実性のもとで生起する損失の可能性に対して、企業の取引先や銀行等の債権者の地位を守るために、危険準備という保険を提供しているようなものです。そのような低い地位にあるからこそ、株主の権利は守られなければならないのです。ここに、企業統治論の根本があります。
 株主の権利が守られる状態というのは、企業が成長して、株主に利益還元ができるときだけです。株主は、単なる危険準備を提供しているのではなく、経営者が時間をかけて成長戦略を実現していく過程に対して、時間的猶予を提供しているのです。故に、経営者は、許された時間軸のなかで、成長を実現しなければならない、新たなる付加価値を創出しなければならないのです。その経営者の株主に対する責任が、企業統治論の中核にあるものなのです。
 つまり、成長なきところ企業統治なしです。これを逆にして、企業統治なきところ成長なしとしてもいいでしょう。だとすると、企業統治なきところ投資なしとなります。ある意味、当たり前の結論のようです。
 

ところで、成長なきところ投資なしかもしませんが、成長がなくとも企業はあり得ますよね。
 
 哲学の問題だと思いますが、企業は必ずしも成長しなくていいのかもしれません。成長がないということは、企業が付加価値を生んでいないということではなくて、新たなる価値の創出において、積極的な展開がみられないというにすぎないのでしょう。成長がなくとも、既存の中核事業については、安定的に社会に対して価値の創出を行っているわけです。
 他方、新たなる価値創出へ取り組むとは、新たなる危険を取り込むことと同じです。成長戦略には、失敗の可能性が付き纏うからです。その危険は、既存の中核事業の継続をも困難にしてしまう可能性があります。それでは、社会に対する関係では、かえって責任が果たせなくなるかもしれません。
 要は、積極的に成長を志向するかどうかは、企業の哲学の問題なのです。哲学というのは、社会に対する責任のとり方についての立場の違いです。
 

成長といっても、多様な形態があり得ますね。全く成長を目指さない企業も少ないでしょうし、同時にまた、積極果敢に成長を志向する企業も多くはないかもしれません。各企業の様々な成長戦略に対して、様々に異なる成長資本の供給形態があるのが、本来の金融の姿かもしれませんね。
 
 成長資本が全て株式で調達されるということではないと思います。株式を使った資金調達は、株主に対して大きな責任を負います。その責任の果たし方が企業統治論です。もしも、企業が株式を使った資金調達をするのならば、企業は成長しなければならない。上場ということが株式市場からの資金調達を前提にしているとしたら、上場企業は成長しなければならない。企業統治論の対象が主として上場企業であるのは、当然のことです。
 しかし、企業の圧倒的大多数を占める非上場企業の場合、なかには積極的に成長を志向する企業もあるでしょうし、そのような企業が、株式による調達を目的に、上場をしたり他社と資本提携することは、必ずしも珍しいことではないでしょう。しかし、多くの場合、株式以外の資金調達方法によって、成長資本を確保しているのではないかと思われます。
 

日本では、伝統的に、成長資本も銀行等の融資によって賄われてきたのでしたね。そこに、日本的金融の特色があった。
 
 成長なきところ投資なしですが、投資なきところ成長なしというわけでもなく、融資によっても成長のための資金調達は可能な場合が多いのです。実際、敢えて増資という方法をとらなくても、長年の経営によって蓄積された自己資本の厚みを利用すれば、余裕をもって負債調達ができる企業も少なくはないのでしょう。
 もっとも、融資によって調達した資金を長期的な成長戦略に振り向ければ、事態が思うように進行しなかったときの危険性は株式よりも遥かに大きなものになりますので、既存の中核事業へ与える影響も大きくなると思われます。その危険を回避しようとすれば、危険を余裕をもって吸収できる程度にまで、投資額を小さくせざるを得なくなるでしょう。つまり、思い切った成長戦略はとれなくなる。
 他方では、期日の決まった融資によって成長資本を調達すれば、経営者は、成長戦略の計画通りの実行について、大きな責任を負うことになります。つまり、債務負担により、企業統治へ大きな圧力がかかることになるのです。企業統治論の多くは、株主の地位を守る方向性のものですが、実は意外と見落とされているのが、このような債権者の立場を守る企業統治論の意義です。
 日本の場合、戦後復興のための資金調達の仕組みとして確立した銀行を中核とした金融制度の大枠は、今日も健在です。1980年代に英国や米国で大胆に実行されたような資本市場改革が行われなかったからです。銀行等に大きく傾斜した日本の金融構造からすれば、非公開企業に限らず、日本の産業界全体として、融資への依存度が大きくならざるを得ないのです。日本では、成長資本の調達における融資の役割は、歴史的にも今日的にも、極めて重要なのです。そして、債権者の力による企業統治も、それなりに機能してきたのです。
 もっとも、債権者の立場からする企業統治が債権者の利益を守る方向に働くとき、はたして、株主の利益が十分に守られるのかという問題、つまり、株主の犠牲のもとに債権者の利益が守られはしないかという問題、あるいは、時間的制約が、経営の長期的視点に立った成長戦略の実現にとっての拘束になるのではないかといった本質的な問題については、十分に検討する必要があるでしょう。
 また、もっと本質的な問題として、日本の金融構造を短期間に根本的に変えることが不可能である以上、そして融資という金融機能では、成長資本の供給能力に限界のあることを考えれば、株式でも融資でもない新しい成長資本の供給形態を工夫していかなければならないということです。
 

それが、アセットファイナンスや、株式と融資・社債の中間にあるメザニン(劣後融資等)の拡大ということですね。
 
 金融機能なきところ成長なし。その金融機能が株式による資金調達である必要はない。融資でもいいが、融資という形態では、成長資本の供給能力に限界がある。しかし、株式か融資かという二つの選択で考える必要もない。金融は、もっと創造的であるべきです。成長のための資金供給こそが、金融の社会的機能です。その機能の実現のために創造的に工夫することこそが、金融の社会的使命なのです。
 ちなみに、安倍政権は、金融機能なきところ成長なしという理念を明確にしていますが、具体的に採用した手法は、「官民ファンド」です。これは、まさに、日本の金融構造を短期間に根本的に変えることが不可能であるとの認識に発したものですが、官の機能は「呼び水」というのが約束ですから、官から民への機能の移転は、短期的に実現しなければならない。その民の受け皿については、民で工夫するのが当然であって、そこまで官に期待したらおかしい。いままさに、民の金融機能の創意工夫が求められているのです。

以上


 次回更新は6月13日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2013/01/31掲載「政府による「リスクマネー供給」の可否
2013/01/24掲載「官民ファンドの機能
2013/01/17掲載「産業金融の理念
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行
2012/08/30掲載「産業金融の王道を歩もうではないか
2010/05/27掲載「成長資本の投資と回収の仕組み
2010/05/13掲載「成長資本という理念
2010/05/06掲載「成長資本という理念に基づいて日本の成長を実現する会

≪ アーカイブから今週のお奨めは「素晴らしい帯広信用金庫の取り組み」≫
2012/09/13掲載「とかち酒文化再現プロジェクト
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。