再び、想定を超える事態について

森本紀行
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東京電力の原子力発電所問題に関して、前回のコラムの中で、「微小な賭けが現実的な危険に転化したとき、経済計算は終わる」との発言がありました。これは、このような事態の下では、施設の経済価値の維持に関する配慮は働き得ないことを意味していると解してよろしいでしょうか。つまり、廃炉が前提になるのだと。

 報道によれば、福島県郡山市の原正夫市長は、19日、「原発の廃炉を検討するのではなく、廃炉を前提に事に当たってほしい」と、東京電力と政府に対して要請されたとのことです。これは、東京電力の幹部が、廃炉に関して、「今後はそういうことも含めて検討していく」と述べたことに対する抗議だとのことです。
 これに対して、枝野幸男官房長官は、20日の記者会見で、廃炉の可能性について、「客観的な状況として、再び稼働できるような状況であるのかどうかははっきりしている」と述べました。事実上、廃炉を示唆したものと受け取られているようです。
 私には、郡山市長の気持ちがわかるような気がします。私には、政府や東京電力の責任について、「想定を超える事態」を想定すべきであったとは、到底思えないのです。しかし、想定し得ない事態が現実化したときには、全ての想定を放棄して、対処すべきだと考えています。
 想定の中には経済計算が含まれるが、想定し得ない事態が現実化した後では、経済計算の入る余地はない。つまり、原子力発電所の施設の経済価値の維持や、事故対策費用の経済合理性について、検討する余地はない。国民の安全が最高の絶対価値なのだから、それ以外のことを検討する余地はない。なのに、なぜ、廃炉が今後の検討課題になるのか、そのようなことは、当然に前提になっているのではないか、それが郡山市長の気持ちだったのでしょう。私も同じ気持ちをもちます。


しかし、言葉の至らない点はあったにしても、まさか、東京電力や政府の対応の中に、事故のあった原子力発電所を再稼動する場合の用意を含んでいたとは、人間として考え得ないのですが。

 事故発生直後、事態の深刻さが充分に認識されるまでは、原子力発電所の経済価値の維持や、事故処理の費用に関する検討があったのは、むしろ、当然ではないでしょうか。事業としてやっていることですから。実際、事故が想定の範囲内のものであり、破損を容易に修復できるとの認識があれば、早急に再稼動させて、電力を安定供給することこそが、本来の課題であったに違いないのです。
 問題は、国民を深刻な生命の危機に曝す非常事態であるとの認識に、政府と東京電力がいつ到達したのか、ということでしょう。それと、もうひとつ。その危機を認知したときに、なぜ国民にそのように宣言しなかったのか。
 郡山市長と同じように感じた日本人は、恐らくは、少なくないのだと思います。少なからざる人が、政府と東京電力の対応に、つまり、危機認識の遅さと決意のほどに、不信感をもっていたということではないでしょうか。
 情報開示、情報開示といいますが、前回も述べましたように、なんでもかんでも、情報を垂れ流せばいいということではないのです。情報咀嚼能力との関係における、きめ細かな対応が必要なのだと思います。正しい情報も、冷静に受け入れる精神的余裕なくしては、正しく伝わらないし、ましてや、正しさについての不信感がある中では、いかなる情報開示も意味をなさない。
 早い段階で廃炉を宣言することは、政府と東京電力の決意の表明としては、有効な方法だったのだと思います。その決意の表明によって信頼感を得ることで、その後の情報開示の有効性を高めることができたのだろうと思います。その意味で、政府と東京電力の対応は、稚拙だったのでしょう。


投資の本質について、信頼の連鎖ということを強調してきたこととも、関係がありそうですね。

 投資は、本質的に、不確実な将来へ賭けることです。賭けの要素は、決してなくならない。このことは、「投資における賭けの要素」の中で論じたことです。経験と科学的分析に基づく信念の形成、その信念の上にのみ、賭けが可能なのです。その賭けが、損失に帰着することがあるにしても、経験に裏打ちされた信念に、科学的調査を尽くした信念に基づく限り、その信念を運用委託者である顧客と運用受託者である運用者とが共有している限り、両者間に信頼の連鎖がある限り、正しいビジネスとしての資産運用は成立するのです。
 同じような信頼の連鎖が、原子力発電施設を運用する東京電力と、監督する政府と、施設の近隣住民との間になければ、危機の打開はできないということなのでしょう。


恐らくは、原子力の専門家として、東京電力と政府には、危機を回避しなければならないという決意と、技術的に危機を回避できるとの信念はあったのでしょうね。それが、必ずしも、うまく国民に伝わっていないかもしれない。

 決意や信念を伝えることは、難しいですね。長い時間をかけて形成される関係性の中でのみ、可能なのでしょう。そのような関係性の中でなければ、いかに情報開示といっても、特にその情報が高度に技術的であるような場合には、情報自体に意味を籠めることができないのでしょう。
 同じようなことは、投資の世界では、運用結果の報告に現れているのではないでしょうか。運用者と顧客との間に信頼関係があってこそ、運用報告は意味をもつのでしょう。もしかすると、信頼が強固であれば、報告自体が必要ないのかもしれません。信頼関係がない中で運用報告をいかに充実させても、空疎に響くだけです。
 説明からは、信頼は生まれない。信頼があるから、説明がつく。では、信頼は、いかに形成されるのか。私には、それが賭けの要素の明確な表明なのだと思います。


経済的被害の補償ということも、生命の安全が最優先の現段階では、論じる時期ではないのですが、やはり、同じことはいえるのかもしれませんね。補償は政府と東京電力の責任で確実に行うという確言が必要ですね。

 先に確言することで、責任が明確になるのだと思います。責任が明確だから、信頼が生まれるのです。信頼があるから、協力があり、団結一致があるのです。団結一致があるから、危機の打開があるのでしょう。
 確言する前には、決定がいります。このような事態において、決断、決定以外に、政治の役割があるのでしょうか。
 投資においても同じことです。投資判断は、決断です。決断には、くどいようですが、必ず説明できない賭けの要素がある。だから決断なのです。合理的推論の先に帰結することに、決断は要らない。合理的推論から必ず飛躍しなければならない。そこが投資判断です。


ところで、東京電力自身の震災による被害額も、原子力発電所事故に起因する補償責任額も、全く予想がつかない中で、現時点では、東京電力の企業価値の合理的推計は不可能ですね。なのに、その株式の取引が株式市場で継続していることは、さて、いかがなものでしょうか。

 投機ですね。しかし、投機の機能を否定すべきではないでしょう。投機家がいるからこそ、このようなときにも、市場の流動性が枯渇しないのですから。ですから、取引所が東京電力株式を取引停止にしないのも当然です。でも、投機は投機です。
 それにしても、東京電力については、株式だけでなく、社債についても、投資判断がなりたたなくなっています。また、今後の資金調達についても、見通しがたちません。もしかすると、日本長期信用銀行等の場合のような、一時国有化も視野に入るのかもしれません。


思えば、東京電力は、大規模な増資により、既存株主に希薄化による大きな損失を与えて、社会批判を浴びたばかりでしたね。その点について、批判を展開していたようですが。

 そうです。私は、現在のエネルギー関連の世界の資金調達方法の多様化の動向との関係で、東京電力の稚拙な方法を強く批判してまいりました。エネルギー市場は急激に成長している一方で、構造も激変しています。資金調達の方法も、著しく多様化しています。
 一方で、日本の電力供給体制は、旧態依然です。今回の電力供給不足でも、明治の初期に遡る50ヘルツ/60ヘルツ問題が、電力融通の障害になっています。変革を阻んできたのは、東京電力を頂点とした既存勢力のあり方です。その中で、安全神話の下に原子力発電が推進されてきたのです。そして、この事故。
 東京電力が、あるいは現在の政府のエネルギー政策が、今のままの形で復活することは、到底あり得ない。代替エネルギー開発と省エネルギー化に軸を据えた政策、既存電力会社の解体、発電・送電・配電の横割り産業構造への転換など、全く新しい仕組みへと変革していく、いかねばならないのだと思います。
 エネルギーは巨大な産業の基盤です。この分野の構造変革による成長戦略、ここらあたりに、日本の復興戦略が、そして、新しい投資の機会が、あるのだと思います。

以上


次回更新は、3月31日(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。