投資における賭けの要素

森本紀行
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投資も賭けでしょうか。投機は賭けだが、投資は賭けではない、普通は、そのように理解されているのではないでしょうか。

 投資が、不確実な将来へ向かって資金を投じる行為である以上、賭けの要素は決してなくなりはしないでしょう。科学的な装いの下で、投資から賭けの要素を払拭しようと努力するよりも、正面から賭けの要素を直視することが必要なのだと思います。
 例えば、過去の統計的数値は事実ですが、その数値の将来へ向けての再現性を想定することは、制限を付するにしても何らかの意味における再現性を想定することは、将来に対する賭けです。


科学的に、統計的に、処理された賭けを投資というのではないでしょうか。統計的な処理がなされる限りにおいて、投資はもはや賭けではない、それが普通の理解だと思うのですが。

 敢えて普通の理解に反対はしません。しかし、統計的に処理されると賭けではなくなるとはいえない。統計的に処理されても賭けは賭けだということが重要なのです。
 どのような分析の方法を用いようとも、どのような統計的数値の裏付けをとろうとも、不確実な将来へ向けての意思決定である以上、必ず賭けの要素は残るのです。問題は、分析の枠組みや統計的数値の適用の中で、どこに賭けの要素があるのかが不明瞭になること、賭けの所在が曖昧になることなのです。
 例えば、資産毎の期待収益率とその標準偏差を使って資産配分を決めたりするでしょう。この場合、資産配分の決定、例えば国内株式の組み入れ比率の決定が、重要な意思決定のようにみえる。そこに賭けがあるようにみえる。しかし、本当にそうでしょうか。実は、国内株式の期待収益率の置き方のほうにこそ、重要な賭けがあるのではないでしょうか。
 そもそも、株式の期待収益率を債券の期待収益率よりも低く設定すれば、株式が組み入れられる可能性はまずないでしょう。日本の場合、長期統計は、株式の収益率が債券の収益率を下回っていることを示しています。なのに、なぜ、株式の期待収益率が債券のそれを上回るように設定されるのでしょうか。
 おそらくは、株式の期待収益率は債券の期待収益率を上回るべきだという通念が、そのようにさせているのです。その瞬間、株式へ投資することに内包される賭けの要素は、埋没してしまう。埋没されたからといって、賭けの要素がなくなるわけではないのに、です。


確かに、前提条件の設定などに賭けの要素が潜在的にとり込まれてしまうと、本質を隠蔽してしまう可能性は否定できないですね。では、賭けの要素を明示的にとり扱うとは、具体的に、どのようなことを意味するのでしょうか。

哲学的にいえば、何を信じているかを明らかにすることです。


哲学的にいわないとしたら、どうなりますか。哲学的にしかいえないのだとしたら、それは、もはや、厄介な病といわざるを得ないのですが。

 病で結構です。哲学的にいえば、橋を渡ることができるのは、橋が落ちないという信念のもとでのみ可能なのだ、ということです。この信念、経験によって橋が落ちないことを知っていることに基づくのです。ところが、そのうち、政府の財政破綻によって、維持管理の不十分な橋が増えて、この橋危険につき渡るべからず、みたいな標識が多くなると、橋を渡ることは、もはや、一つの冒険になってしまう。
 人間の日常の行動は、全て、信念に基づく賭けです。日常的信念が、信念として意識されないくらい深く硬くなるとき、賭けの自覚はなくなります。株式の収益率は債券の収益率よりも高くなくてはならないという信念が、あまりにも頑迷固陋に定着してしまうと、株式へ投資することの賭けの要素は隠蔽されてしまうのです。そして、株式の期待収益率に関する信念が揺らぐとき、突然、株式への投資は冒険とみなされてしまう。つまり、投資ではなくて投機とみなされてしまうのです。


信念に基づく賭けが投資であり、信念を喪失した冒険は投機である、ということでしょうか。

 そうです。そもそも、誰が損失を前提にした投資を行うでしょうか。損失は避け得る、投資の価値は認識し得る、そのような信念のもとでのみ、投資は可能になるのではないでしょうか。そして、その 信念の形成のために、投資対象の徹底した科学的分析という営みがあり得るのではないでしょうか。
 信念は、思い込みではなく、絶えざる経験的帰納と理論的演繹の結果として、常に新たなるものとして持続的に形成されるものです。信念は生きています。あるいは、生きることは、新たなる信念の形成とともにあります。
 信念に基づく賭けは、常に創造的なものです。それに対して、信念を欠いた冒険としての投機は、常に破滅的です。それは、論理を欠いた情熱的暴走であるか、損失を前提とした奇怪な興奮であるかです。
 投資が賭けであるにもかかわらず、科学であり得るのは、賭けを成立させる信念が、徹底した科学的な分析の結果としてのみ、形成されるからです。


日本の場合、日本の株式への投資が成り立つためには、新たなる信念の形成が必要だということでしょうか。

 少し脱線した答えですが、日本の株式市場の場合、投資が成り立たないだけでなくて、投機としても少しも面白くないようですね。なんだか、実につまらない格好ですね。投機すら起き得ない死んだ市場のようです。どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。残念至極です。
 とにかく、もしも、日本の株式市場が科学的な投資の対象として成り立つならば、投資家の信念の対象としての価値、賭け得る価値、が存在しなければならないのです。
 もともと、日本株式という抽象的なものがあるのではない。日本の株式市場は、日本の証券市場に上場している個々の企業の集積にすぎません。では、問いますが、そのような多数の日本企業の全てに投資価値がないといえるでしょうか。いくらなんでも、そこまではいえないはずです。
 更に重ねて問いましょう。投資価値のある日本企業だけ選択して投資することはできるでしょうか。もしもできないとしたら、日本の株式に投資をするという資産運用事業は存立し得ないはずです。故に、業としての資産運用がある限り、価値のある銘柄の選択は可能です。確信をもって価値判断をすること、銘柄選択に賭けること、これこそが業としての資産運用の存立基盤だからです。


しかし、日本に限りませんが、銘柄選択に賭けるというようないい方は、資産運用事業の中で聞くことは、ほとんどないのではないでしょうか。

 おそらくは、本来のプロフェッショナル・サービスとしての資産運用業では、運用担当者が自己の銘柄判断に賭けるということは、同時に、自己の人生を賭けるということだったのでしょう。そこに、プロフェッショナル倫理の基礎があったのでしょう。
 賭けの要素の隠蔽が、同時に、プロフェッショナル倫理の崩壊を意味しているのだとしたら、それは、由々しきことなのですが。

以上


次回更新は、11/11(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。