不良債権は「不良」ではない

森本紀行
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「不良」というのは、私の手元の辞書(岩波国語辞典)によれば、「一般に、よい状態でないこと」です。

 では、不良債権とは、「よくない状態の債権」のことなのか。それは、そうなのかもしれません。しかし、だからといって、必ずしも、「よくない資金供給形態」とは、いえないのではないでしょうか。
 「銀行は、晴れの日には傘を貸し、雨が降ったら傘を取り上げる」、こう書くと、銀行の方は、嫌がるでしょう。しかし、これは古くから、巷でいわれ続けてきたことです。いまの亀井静香大臣も、同じ趣旨のことを、いっておられるに過ぎません。私もかつて、2008年11月13日のコラム「風邪をひいたら、もっと働くのか、食事も減らすのか」で、同じ問題を取り上げています。
 正常な債権が、「不良な」債権に格落ちするときには、色々に異なる背景があるのでしょう。私は、前掲のコラムの中で、次のように述べています。
 「以前、地方銀行の頭取の方とお話をする機会がありました。そのとき、頭取は、「融資先のお客様の中には時々熱を出す方がいらっしゃいますが、しばらくすると何事もなかったように元気になられることが多いですね。」というようなことを仰っていました。やはり事業には、大波小波、変動が避けられないですから、熱が出る程度の不振は常にあるわけです。それが、風邪になり、肺炎になり、命にかかわる状況にまで至るかどうかは、銀行にも簡単には見通せないと思います。ただ、頭取としては、熱が出たときには、出来るだけ暖かく見守りたい、出来れば一緒になって業況の悪化を防ぎたい、というお気持ちだったと思います。」
 要は、この「熱を出した状態」が、「不良」なのか、ということです。債権としては、「不良」なのかもしれませんが、「熱が出たときには、出来るだけ暖かく見守りたい、出来れば一緒になって業況の悪化を防ぎたい」、という思いは、まさか、「不良」ではないでしょう。
 「暖かく見守る」ということの具体的な対応としては、弁済期日の先延ばしや金利減免を含む、融資条件の緩和になるのだと思います。そこで、条件緩和という措置が不良ではないのに、その結果、正常債権が不良債権になってしまうのは、おかしいのではないか、という議論になるのだと思います。亀井静香大臣でなくとも、その通り、といわざるを得ない感じです。
 私は、前回コラム「金融の社会的機能としての投資銀行業務」と、前々回コラム「地に堕ちた「投資銀行」の再興を地域金融機関の手で」の中で、繰り返し主張していることは、融資(=債権)だけでは、企業金融の社会的使命は、到底、果たし得ないのだ、ということです。不良債権の問題は、債権の枠組みの中だけで処理すること、あるいは銀行を融資機関という狭い枠組みの中に押し込めることから生じるように思われるのです。

企業金融の理論は、最適資本構成の理論です。

 最適資本構成というのは、最上位にある融資(債権)、最下位にある株式、中間の社債・メザニンなどの比率を、企業の経営の実情に対して最適に保つことをいうのです。元気なときには、元気なりの最適構成があるとしても、熱を出しているときには、その状況における別の最適構成があるはずです。その調整を誤るときは、肺炎になり、命の危険すら招くのです。
 日本の金融の伝統の一つ、まさに、日本の奇跡の高度経済成長を支えた仕組みに、「投融資」という考え方があります。これは融資と投資の合成語ですが、この投資というのは、資本構成のうち、債権(融資)より下への資金供給を投資ということに基づいています。つまり、投融資というのは、資本構成の全体を、企業の実情に合わせた形で面倒見ようという、企業金融の王道的思想なのです。
 さて、不良債権ですが、資本構成を変えないからこそ、融資が不良になるのです。理論的には、一時的な企業の苦境期に、資本構成を変えて、融資の下に、劣後構造(メザニンもしくは株式)の厚みを作れば、少なくとも融資の一部は、正常債権のままに、留まるはずです。
 理論的には、不良債権というのは、資本構成上の最上位に位置する融資の全体、もしくは一部が、実態的に、資本構成の下方へ移ることを意味しています。企業金融の理論では、資本構成の下方が不良で、上方が優良だというような価値的表現は、決して用いません。あくまでも、融資の視点で評価するから、その実質的性格の下方への移動を、「不良化」と表現してしまうに過ぎません。資本構成の全体を見る投融資の視点では、実質的構成の変更に過ぎないわけです。

実は、資本構成の抜本的変更、例えば債権の放棄・劣後化・株式化などは、事実上の破綻をした後で、「企業再生」という形をとって行われます。

 もちろん、企業再生という状況に至るのは、決して望ましいことではありません。誰しもの思いは、企業再生という最後の手段に及ぶ前に、そのような最悪の状況を回避できるように、企業の視点で、総合的な企業金融の視点で、金融支援ができないのか、ということだと思います。企業再生という重篤な肺炎に至る前の、熱を出した状態での適切な対応にこそ、金融の社会的使命が存在すると考えられるわけです。
 その本来の金融の社会的使命を果たす過程を、不良債権処理というような否定的な用語で呼ぶことや、銀行経営の非本来業務であるかのようにみなすことは、本当におかしなことだと思います。
 なお、融資の実質的性格を、資本構成の視点で評価することは、現実に行われています。代表的なものは、手形貸付のような無担保短期貸付の形態をとりながら、実質的には、連続的な借換え(いわゆる「転がし」)を行うことで、無期限に近い長期貸付になっているような事例です。こうなると、短期貸付という資本構成の最上位とはみなしがたく、むしろ下位の資本的性格を帯びた劣後融資といわざるを得なくなるのです。
 しかし、だからといって、このような実質的な劣後融資は、多くの場合、決して不良な融資ではありません。むしろ、企業の視点に立った、最適な資本構成の提供である場合も多いと思われます。
 不良債権の問題にしても、手形貸付の転がしの問題にしても、銀行の本来業務を、融資という非常に狭く定義された資金供給形態に絞り込むことから生じる、見掛けの問題です。銀行の本来業務を、企業の視点に立って、最適な資本構成を提供することと広くとらえる、つまり、企業金融の王道にたった投融資の視点でとらえれば、問題ではなくなると思います。

ところで、理屈は理屈として、実質的な問題として、自己資本規制の論点があることは、承知の上です。

 預金取扱機関として、預金保護を絶対条件とし、所要資本の中で、「正常性」という融資の質の維持を要求するところに、根源的な問題があるのです。預金保護が絶対条件であることは変え得ないにしても、企業金融における銀行の社会的使命を機軸にすえて、使命を果たすための所要資本の維持という発想に立つならば、答えは違ってくると思います。
 そのとき、所要資本額は大きくなるのか、結果として、資本利潤率は低下するのか。おそらくは、所要資本額は大きくなるのでしょう。でも、資本利潤率が低下するかどうかはわからない。そもそも、資本利潤率で、銀行経営の評価をすることが、妥当かどうかも疑問でしょう。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。