「ブリダンの驢馬」もしくは「亀を抜けないアキレス」(前編)

森本紀行
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ジャン・ブリダンは13世紀のフランスの哲学者です。このブリダンの名に因んだ有名な哲学上の難問があります。それが「ブリダンの驢馬」です。

 一頭の驢馬を挟んで、左右に完全に等しい質と量の秣が、しかも完全に等しい距離をおいて、置かれています。全く等しいという意味は、左右の秣を比較して優劣をつけることができないということです。つまり、驢馬にとって、右の秣を食べるか、左の秣を食べるかの選択の根拠がないということです。ゆえに、驢馬は秣を食べることができずに餓死するというのです。
 普通の人には馬鹿げた詭弁です。しかし、哲学的には難しい問題を含んでいるのです。もしも、驢馬が右の秣を食べるならば、右を選択する理由が必ず存在しなければならないとしたら、右を選択することに驢馬の選択の自由はないことになります。全ては、必然的な摂理に従った展開に過ぎないのです。ただ、摂理の全体は神のみぞ知ることであり、有限なる人間の智慧(ましてや驢馬の智慧)では知り得ないのみです。もっとも、そのように考えると、この設題のように論理的な選択の根拠を見出せないような状況は、そもそも、摂理上、存在し得ないので、設問自体が無意味なのですが。
 一方、常識ある人ならば誰でもそう考えるように、この驢馬、餓死する前に両方の秣を食べてしまうでしょうね。その際の順序は、餓えた驢馬にとって、どうでもいいことでしょう。「どっちから食べようが俺の自由だ」という低俗な話にもなります。しかし、ここに一つの哲学上の逆説が生まれます。選択の根拠がないからこそ、選択の自由があるということです。確かに、論理的な根拠に従って選択できるならば、選択は論理的必然であって、自由意志によるものではありません。論理的帰結の反対を敢えて選択する天邪鬼も、アンチ巨人が巨人ファンの変形であるのと同じような意味で、拘束された選択であって、自由な選択ではありません。私は、合理的判断を超えたところでの決断という意味で自由を捉えるとき、自由ということが日常語と全く異なる厳しさを帯びることに・・・ともう切りがないですし、もはや私は哲学者ではないので、この辺で止めましょう。

さて、人間社会における選択では、選択の帰結を客観的に正確に予測することができないので、論理必然的選択は成り立ち得ません。

 多かれ少なかれ、餓死する前に右か左を、エイやと選択するブリダンの驢馬と同じように、論理を超えた決断をしなければならない場合が多いのです。
 企業経営において、経営の仕事とは何であるかといえば、このような意味での決断にあることはいうまでもありません。経験則から知られる合理性や蓋然性に基づく意思決定は、現場の判断であって、経営上層まで上がることはあり得ません。過去からの連続性に基づいては判断できないことについて決断することが、経営の最も重要な役割です。過去の連続を越えることを革新というならば、革新こそが経営の役割といわざるを得ません。
 過去の事例で予測されるようなことにも、将来への再現性については、それなりのリスク(不確実性)があります。ましてや、革新においては、やって見なければわからないのですから、「賭け」といってもいいような大きなリスクが伴います。そのリスクをとることが経営の意思決定です。しかし、ひとたび、革新を始動させれば、そこから連続的に生起する経営課題については、過去からの経験が十分役立つはずです。だから、革新を成功へ導ける。その成功体験が、つぎの革新へとつながる。
 4月9日のコラム「徹底的に起業を科学する(前編)」において、エムアウトの田口社長の語録を紹介しましたが、その最新の5月1日のものは『「決断すること」「成長すること」「リーダーシップを取ること」』と題されていまして、そこでは「決断」の意味が極めて明白にされております。特に、「一旦決断すれば、あとは100点満点を目指して懸命に努力あるのみです」という点が重要なのだと思います。100点満点目指して努力することには、過去からの連続的経験が生きるのでしょうが、それも、一旦決断すれば、という革新的飛躍の後の話です。決断そのものについては、仕事を越えた経営者の人間としての総合力が必要なのだと思われます。そして、決定的に重要なことは、決断したことがうまくいかなかったとき、「責任を取る覚悟」がなければならないということです。責任なき決断はあり得ないのです。

投資についても同じことです。決断なき資産運用など、到底あり得ないのです。

 資産運用には、必ず、「賭け」の要素がつきまといます。賭けを避けるのではなく、そもそも賭けが避け得ない以上、賭けを直視することが、資産運用の原点でなければなりません。賭けが避け得ないことと、賭けた結果には必ず責任を負わなければならないこととは、資産運用の基本中の基本といわざるを得ないのです。
 このことは、自己財産を運用する投資家にとっては自明ですが、機関投資家の資産運用においては、必ずしも自明ではありません。むしろ、そこでは、結果については責任が取れないということを前提に、賭けの要素を極力避けようと努力してきました。あるいは、覆い隠そうとしてきた、といってもいい過ぎではないと思います。しかし、覆い隠された裏では、どこかで無自覚的に賭けがなされ、誰かがその結果責任を負担してきたのです。
 決断という自覚的賭けがなされなくとも、不決断という無自覚的賭けは、いくらでもなされるのです。投資環境は変化します。変化にもかかわらず、旧態を墨守すれば、それは、不決断という大きな賭けを意味します。一方、環境変化に合わせた革新的決断をすることも、大きな賭けを意味します。賭けの時点では、結果は神のみぞ知る。しかし、結果が出た後は、人間社会の問題です。自覚的決断には進歩が伴うのに対し、無自覚的不決断には進歩がない。また、自覚的決断の責任の所在は明白なのに、無自覚的不決断の責任の所在は不明確になりやすい。責任の所在が明確でない限り進歩がない、というのが人間社会の仕組みなのだと思います。
 哲学ついでに、後編では、エレアのゼノンの逆説と資産運用の関係について取り上げましょう。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。