金融危機にみる日本型金融モデルの理念と小泉改革の功罪(後編)

森本紀行
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私は、前々回のコラムで、オバマ大統領の意図する改革が、1980年代に米国のレーガン大統領と英国のサッチャー首相が強力に推進した「平均から格差へ」の改革の逆転で、「格差から平均へ」へ向かうものであることを述べました。

その際、「日本では、遅ればせながら、ここまで遅れたならば、むしろやらないほうがずっと良かったという時期になって、小泉内閣が「構造改革」と称して打ち出した路線です」という、付け加える必要もないことを、あえて、付け加えておきました。
 深刻な金融・経済危機の中、オバマ大統領がでてきて、過去30年間の路線の転換を始めようというときに、その少し前に、20年以上も遅れて、小泉内閣が「構造改革」の名の下に、一世代前の古い理念を打ち出したことは、結果的に随分と時間の巡り合わせが悪かったのだな、と思ったので、余計なことを付け加えたのです。
 小泉改革は、郵政民営化に象徴されるように、金融制度改革に大きな力点を置きました。実は、1980年代の米国や英国の改革でも、資本市場の自由化と高度化が最も重要な要素でした。それにしても、なぜ、日本では金融制度改革が20年以上も遅れたのでしょうか。当然、日本でも、1980年代を通じて、戦後復興型の金融モデルからの転換は構想されていたのだと思います。米国からのものを中心に、自由化を要求する、いわゆる「外圧」も強かったはずです。
 もはや、過去のことはわかりません。しかし、適切に機能しなくなった金融制度が、長々と生き延びたはずはないと考えるのが自然です。それなりに機能していたからこそ、存続し得たはずなのです。小泉内閣は、それなりの機能では満足しなかったか、あるいは、放っておくと機能不全に陥るリスクを認識したかで、「改革」を断行することにしたのでしょう。
 そして、今の問題です。改革後の日本の金融システムは、この危機に有効に機能しているのでしょうか。少なくとも、日本の外では、危機の原因を作ったともいわれる金融システムだけに、それこそ、抜本的改革なしには、機能し得なくなっているようです。公的介入によって、かろうじて機能しているのが現状ではないでしょうか。では、今の日本の金融は、小泉改革の成果により、危機克服へ向けた機能が強化されているのでしょうか。それとも、機を失した改革の結果として、逆に、機能が低下しているのでしょうか。あえて、どちらかを選ぶとすれば、何とはなく、後のほうではないかと感じるのは、私だけではないでしょう。

ところで、戦後日本において、世界に誇るべき経済成長を実現するについて、日本の金融システムが、きわめて重要な役割を演じたことは間違いありません。

もっとも、高度経済成長期を終え、1970年台の苦難を乗り越え、1980年代以降の低成長経済へ移行する過程では、何らかの本質的な改革が必要だった点については否定できないでしょう。しかし、高度経済成長期には、きわめて有効に機能した金融システムだったはずです。むしろ、よく機能しすぎた結果として、あまりにも強力な基盤が形成され、その後の改革の速度を鈍らせたのかもしれません。それでも、繰り返しになりますが、強力なものだけに、それなりには機能し続けたのでしょう。
 その日本型の金融システムですが、基本は、徹底した所得の平準化によって大衆消費需要の拡大を志向するという、当時の(小泉改革にもかかわらず、今でも基本はそうでしょう)経済政策の結果であり、また推進力でもあったのだと思われます。即ち、小口な預金を限られた数の金融機関へ集積して巨大な資金の塊を形成させ、それらの金融機関が投資主体となって、産業界へ投融資を行うという仕組みです。保険もそうです。小口な掛金の集積が、少数の巨大な機関投資家としての保険会社を創出し、それが産業界の重要な資金源となったわけです。
 旧郵政省の郵便貯金と簡易保険もまったく同じ仕組みで、この場合は、集積された小口貯蓄が政府の投融資に回ったのです。まさに、郵便貯金と簡易保険は、「大きな政府」の象徴みたいなものですから、小泉改革の標的になったのは、よくわかります。民間の金融機関についても、資本の集積を優先させるあまり、規制という名のもとにおける過大な保護政策がとられている点に、小泉改革の鉾先が向かったのです。確かに、日本型金融システムは、1980年には、戦後復興という役割を終えていたのですから、その改革を断行した小泉内閣は間違ってはいないのでしょう。しかし、問題は、なぜ20年遅れなのか、ということと、そこまで遅れたならば、別の改革路線を検討すべきではなかったのか、ということなのです。

(⇒後編はここから)1980年台の初期に、米国や英国とともに金融改革を行っていたならば、あのバブル、その後に大きな禍根を残した昭和の大バブルは、起きなかったと思います。

低経済成長への移行に伴う産業界の資金需要の後退と、旧来と変わらない金融機関の強力な資金調達の仕組みとの間に、大きな不適合が生じ、巨額な余剰資金が不動産へ向かったのです。しかし、それから30年経ち、10年前の金融危機を経て、さらに小泉改革を経てさえも、日本の金融機関には変わらない「強み」があります。この強みは、1980年台初期に改革をしていれば、別な形になったのでしょうけれども、現実には、その時点での改革はなく、その後20年も生き残ったものなのですから、その強みの意味を検討することなく、小泉改革はあり得なかったのではないか、と思うのです。その強みとは何か。
 それは、いうまでもなく、日本の金融システムの個人貯蓄の支配力としての強みです。貯蓄から投資へ、それに適合した金融制度改革、さらには国民の意識を変えるための投資教育などと、叫ばれましたが、依然として、国民貯蓄の大半が預貯金と保険です。個人金融資産1500兆円といわれますが、その過半が、預貯金と保険なのです。確かに、この貯蓄構造は、国策的に金融機関を保護育成する過程で形成されたのは事実でしょうが、だからといって、国民の貯蓄についての選好として、預貯金と保険が適合していたのでなければ、これほど強く支持されることはないはずです。
 金融の規制緩和や、ペイオフの解禁などによって、いかに政策的に貯蓄から投資への転換を進めようとしても、国民の貯蓄に関する選好までをも政策的に変え得るかどうかは、大いに疑問であり、事実、変え得ていないのが実情です。変えようとして変わらないものには、変わり得ない後進性を見るのではなくて、むしろ、全く別な視点から、強みとしての価値をこそ、見出すべきなのではないか、と思われるのです。そもそも、金融の基礎となる貯蓄構造が変わらない限り、いかに制度改革を推進しても、金融の本質は変わりようがありません。強みが変わらない中で強みを否定する方向での制度改革はおかしいといわざるを得ません。

もともと、金融制度改革は、経済システム全体の改革の中で行われることです。

1980年代の米国や英国の改革でも、金融制度だけではなくて、税制改革、政府の経済面における機能の改革など、全体の仕組みが大きく変わっていくのです。その中で、結果的に、国民の貯蓄の構造が変わっていき、実質的な金融制度の改革が進行したのだと思います。小泉改革も、金融改革をはじめとした経済の全体的な構造改革を志向しました。今後の改革路線を徹底すれば、貯蓄構造も変わり、最終的には、金融の構造も変わっていくのかもしれません。しかし、そのためには、改革を徹底する必要がありますが、今は、そのような改革を徹底するときなのでしょうか。1980年代以来の改革路線が、完全な行き詰まりをきたし、オバマ大統領が路線の転換を宣言した今このときに、旧路線の改革を徹底するというのでしょうか。
 日本の金融システムは、貯蓄における銀行預金の比重が大きく、銀行に資金が集積される仕組み、即ち、間接金融主体の仕組みは、大きくは変わっていません。くどいようですが、小泉金融改革にもかかわらず、変わっていないのです。米国に比較して、社債等の直接金融市場が、著しく小さいことでも日本の特色はわかります。今回の金融危機は、この市場金融を直撃したのですから、その比重の小さい日本の銀行の損失が相対的に小さいのは当然です。日本が、古い強み、即ち貯蓄構造における預貯金と保険が大きいという強み、を温存させていたことが、日本の被害を小さくしたのだと思われます。
 今、この日本の金融の強みを、改めて見直すことが必要なのではないでしょうか。日本の金融は、今、この大切なときに、強みを生かした活躍ができているのでしょうか。もしも、十分な活躍ができていないとしたら、それは、小泉改革が不徹底だからではないと思います。そうではなくて、本来の強みを忘れていることにあるのだと思います。
 「郵政見直し」とか、「小泉以前」とか、いわれているようです。私は、小泉以前よりも、1980年以前といいたい。日本の金融機関が、強力な貯蓄市場での力を背景に、投融資型の積極的な資金供給を産業界に行っていた時代、金融が経済とともに成長し得た時代に、今と将来を考える重要な鍵があるはずです。古いシステムに戻ることはできません。あり得ません。しかし、ルネサンスを持ち出すまでもなく、方向感覚を失ったとき、常に参照すべきは、古き良き時代の理念です。



次回更新は、3/26となります。よろしくお願い致します。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。