根本的に向きを変えてしまう小さな境目としての「日本の分水嶺」(後編)

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック

「MOKU」という月刊誌があります。その新年1月号は「日本の分水嶺」という特集になっておりまして、その中に、私の記事も掲載されています。

「サステイナビリティか資本主義か」というタイトルで、金融についての「分水嶺」を語ったものです。
 ところで、「分水嶺」とは何かといいますと、「わずかな違いが行き先を大きく変えてしまう」点なのです。いうまでもないですが、水の流れは、山脈の稜線の右と左とでは、逆になります。山脈の稜線という狭いところを超えるだけで、向きが全く変わってしまうのが水の流れです。いわゆる金融危機の中で、特に、昨年後半の極めて短い時間に、我々の資本主義と、それを支えてきた金融の仕組みは、分水嶺を越えてしまったのではなかろうか、というのが趣旨です。その重要な鍵として、私は、サステイナビリティを挙げました。
 サステイナビリティ、即ち、経済成長の持続可能性ということは、実は、大分以前から意識されてはきました。別に難しいことではありません。無限には経済成長し得ないのではないか、という素朴な懸念です。この成長限界の一番明確な論拠は、地球の有限性です。より具体的には、地球上の資源の有限性です。この有限性は、意識はされていても、中国とインドに代表される新興経済圏の急激な人口増大と経済成長、それに伴う消費の劇的拡大が顕在化するまでは、現実の問題としては考えられてきませんでした。新興経済圏の成長は、日本をはじめ先進経済圏にとっても成長の原動力だったのですが、成長が、一定の水準を超えてしまったとき、成長の限界と歪みが、資源価格の高騰という形で、一気に明らかになったのです。
 中でも、石油などのエネルギー資源価格の上昇は、極めて顕著でした。科学技術的な問題として、恐らくは、太陽光発電その他の代替エネルギー関連の基礎技術は、とっくに完成していたのだと思います。しかし、実用化はされてきませんでした。環境問題やサステイナビリティが論議されている過程でも、実用化はされてきませんでした。なぜなら、経済の原理にのらなかったからです。これも、簡単な話です。石油などの化石燃料の価格が低位にとどまる限り、代替エネルギー開発は、コスト的に化石燃料に対する競争力を持ちえず、採算が取れないから開発され得なかったのです。

我々は、市場経済に立脚した資本主義体制のもとで暮らしています。

その意味するところは、理屈上は正しくても、経済の算数にあわないものは、決して実行されないということです。経済の算数の基礎が、価格です。市場経済にとって価格が全てです。つまり、頭のいい人や良心ある人々が、いかに正しい発言をしようとも資本主義の世の中を動かすことはできません。世の中を動かすのは、価格なのです。石油価格は急騰しました。その結果、代替エネルギー開発は採算にのる見込みができたので、そこに、莫大な投資が一気に行われ始めました。一旦、量産効果の出るところまで投資が行われてしまえば、代替エネルギーの採算点は下がります。その結果、化石燃料からの脱却が軌道にのってくるわけです。そうなれば、石油価格が下がってくるのも当然です。エネルギー問題は、昨年中に、間違いなく「分水嶺」を越えました。歴史的転換です。
 市場原理に立脚した資本主義は、立派に社会変革の機能をはたしているように見えます。サステイナビリティ問題という、資本主義の成長志向が生み出した問題は、その資本主義の市場原理により、自律的に解決の端緒を見出したのです。即ち、資源価格の上昇が、サステイナビリティ問題を顕在化させ、その瞬間に、代替エネルギー開発を誘発してサステイナビリティ問題解決の端緒を作ったのです。「わずかな違いが行き先を大きく変えてしまう」分水嶺は、価格にあったのです。
 エネルギーに限りません。すべての資源について、価格の騰貴が、逆に問題解決の端緒を作ったのに違いありません。自律的な社会変革の力を内包した市場主義、市場主義は、有効に機能しているように見えます。資本主義が機能する限り、資産運用は機能します。代替エネルギーへの転換は、巨大な投資機会となるのでしょう。我々は、これからは、サステイナブル(持続可能)な成長軌道の上で、投資の機会を見出していくのだろうと思います。では、金融危機のほうはどうだったのでしょうか。金融危機においても、市場原理と資本主義は機能しているのでしょうか。金融システムは、金融危機の中で、サステイナブルな成長軌道へ修正の端緒をつかんだのでしょうか。

⇒(後編はここから)<br />資本主義の経済システムにとって本質的な矛盾は、マルクスを引用するまでもなく、資本の蓄積そのものが資本の利潤率を引き下げるという問題です。 

別に難しいことではありません。分母としての資本総量が大きくなるにつれて、分子としての資本利潤が同じ率で大きくならない限り、資本利潤率は、維持できないということに過ぎません。10%の資本利潤率とは、100の資本に対して10の利潤を挙げることです。資本の蓄積が進んで、1万になったとき、10%の利潤率を維持するためには、1000の利潤を挙げなくてはなりません。経済の成長初期において、資本が不足しているときには、資本は豊かな投資機会を見出します。しかし、理の当然として、資本の蓄積が進んで経済が成熟してくれば、利用できる資本総量に対する投資機会は減少してきます。ゆえに、資本利潤率は低下しなければなりません。
 資本利潤率の判り易い指標は金利です。日本では非常に長期に及んで、低金利が定着しています。人口が減少に向かおうという日本です。世界有数の規模にまで蓄積された資本は、行き場を失って久しいのです。いわゆる「金余り」です。いまや、日本だけではなく、「金余り」は世界的現象です。米国の長期金利も、ついに戦後最低水準を記録しました。
 これまでは、即ち「分水嶺」を超えるまでは、世界の資本は、それなりに投資機会を見出してきました。一つは、投資機会を見出すというよりも、積極的に不必要な投資機会を創出するという、不動産等への過剰融資です。いわゆる「バブル」です。日本の20年前の現象と全く同じものです。ところが、不必要な信用膨張は、必然的にはじけます。これが、サブプライム問題とそれに続く金融危機です。もう一つの投資機会は、中国に代表される新興経済圏の成長です。これもまた、地球のサステイナビリティ問題によって、成長の無限性を否定されました。

「分水嶺」を越えた今、先進経済圏では、金利が歴史的な低水準となりました。金利は、資本の価格です。

市場理論的には、価格が安くなれば、需要が増えなければなりません。世界の金融当局が政策金利を下げるのも、そうした背景があるからですが、現実にはどうでしょうか。投資機会がなければ、金利が安くても投資は誘発され得ません。事実、日本の過去の経験は、超低金利にもかかわらず、顕著な投資需要の誘発はなく、低成長経済が定着しています。もちろん、代替エネルギー開発投資など、サステイナブルな成長軌道の中で、資本は、それなりの投資機会を見出すでしょう。しかし、まさに、サステイナブルな成長軌道という制約の中で、現時点で累積された全世界の資本総量は、十分な資本利潤率を維持できるのでしょうか。絶対的な資本の過剰はないのでしょうか。世界的な株価の大暴落は、実は、資本蓄積額の減少をもたらしました。もう、そろそろ、サステイナブルな資本利潤率が期待できる水準に落ち着いたのでしょうか。それとも、まだ先があるのでしょうか。
 いずれにしても、「分水嶺」を越えた今、もはや、資本は不足していないのです。二つの重大な問題があります。第一に、資本の希少性と、それに基づく資本利潤率の高さを前提とした従来の資産運用は、期待収益率の形成において根本的な見直しを迫られます。第二に、この金融危機の後も、構造的な資本過剰傾向の中では、「バブル」や「マネーゲーム」といわれるような、単に市場の攪乱をもたらすだけの投資需要の捏造が周期的に起きる潜在的リスクは消えません。今後の資産運用においては、リスク管理のありようも、根本的な見直しを迫られます。
 金融は、「分水嶺」を超えてもまだ、サステイナブルな成長軌道を見出してはいないのです。しかし、金融問題に関しては、世界に先駆けて「分水嶺」を超えていた日本の中に、経験からくる英知のようなものはないのでしょうか。改めて、日本の過去の株式や債券の運用について、振り返ってみたいものです。

次回更新は、1/29となります。よろしくお願い致します。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。