地域金融の「地産地消」

これを金融に当てはめて、「金融の地産地消」ということを考えるならば、それは、一つの地域内の貯蓄が、そっくり同じ地域内向けの投融資に振り向けられるようにすることだと思われます。
 現状は、ほとんど地域において貯蓄過剰(というよりも投融資機会の過小)であって、その過剰貯蓄が中央の産業界と公共セクタに吸収される仕組みになっています。この仕組みには、当然に、現在の経済産業構造に強く規定され、そうならざるを得ない側面があるのですが、同時に、過去からの歴史的背景に根ざす面もあります。

さて、いま改めて問い返しましょう。地域金融は、地産地消型であるのが、本来の姿だったのでしょうか。

地方に独自の投資機会がないから、中央に資金を集中させ、改めて地方へ還流させるのでしょうか。中央からの資金還流に依存する仕組みは、地方独自の投資機会を本当に育成してきたのでしょうか。それとも、逆に阻んできたのでしょうか。事実はどうでしょうか。政治の歴史的転回を必然的にした重要な背景は、地域経済の深刻な疲弊だったのではないでしょうか。
 しかし一方で、地域内の貯蓄が、そっくり同じ地域内向けの投融資に転じるような状態は、あり得るのでしょうか。あり得るとしても、そのようなことは、望ましいことなのでしょうか。効率的なことなのでしょうか。そうすることで、地域経済は豊かになるのでしょうか。

そもそもが、地産地消(金融に限らず一般的に)が成り立つ基盤を考えないといけません。

何でもかんでも、地産地消になるわけではないし、地産地消にすればいいわけでもありません。何よりも忘れてならないことは、我々の経済システムは、基本的に、市場原理に立脚していることです。市場原理を批判することは容易です。しかし、評論は社会を変えない。市場原理に立脚した施策によってしか、社会は変えられない。市場は、市場内在的に、市場のルールに従って、変えるしかないのです。
 仮に、地産地消が望ましいとして、事実として地産地消が成り立っていないならば、それは、地産地消が市場システムにのらないからです。有り体にいって、儲からないからです。具体的には、地域外から買うのが安いか(競争力がない)、地域外へ出荷するほうが高い(競争力がある)か、どちらか、もしくは、両方です。もともと、交易の理論、あるいは分業の理論は、競争力のない産業が淘汰され、競争力のある産業が伸びることを通じて、日本全体(あるいは世界全体)における、資源の適正配分が実現することを前提にしています。その通りでしょう。この原理に反する地産地消は、あり得ないのです。
 域外で高く売れるものについては、最初から問題はない。地産地消である必要がない、といよりも地産地消を超えている場合です。問題は、域内で作っても競争力のないものについて、いかにして、競争力をつけるかということです。論理的に、二つしか方法はないでしょう。価格面ではなく品質面で勝負すること、つまり付加価値を高くすることか、規模の経済がでるところまで集積度を高めて価格面で勝負すること、この二つです。
 後者については、地域の問題というよりも、日本国の問題です。農林水産業関連にしても、軽工業関連しても、各地域の生産以前に、日本全体の生産が、安価な輸入品に押されていることが問題なのでしょうから。新政権に期待されていることは、戦略的に絞り込まれた特定産業(農林水産業は、間違いなく、その一つ、おそらくは最大の分野)について、抜本的に国際競争力を回復させるべく、強力な政治のイニシャティブのもと、資源の再配置を実現すること(これは、決して、お金をばら撒くことではない)なのだと思われます。

ということで、地方の取り組みとしての地産地消は、品質面での勝負、徹底した高付加価値の追求、ということになるのだと思います。

時代は、まさに、この方向を後押しするように転回しました。均質な価値観に対応する少品種の大量消費は終わりました。多様な(超多様でしょう)価値観に対応した、超多品種少量生産の時代です。インターネット、特にロングテールといわれる世界では、日本中はおろか、全世界の多様な価値観(即ち需要)と、日本の各地域の固有な価値観に裏付けられた生産とが、直接に結びつきます。
 徹底して地域の価値観における高付加価値を実現したものは、インターネットを通じて、全日本になり、グローバルになります。地域の価値にこだわる地産地消は、地域を越えて、全日本にならなくてはならない。全日本どころかグローバルになる野心をも持つべきだと思います。実際、日本の高付加価値の農林水産業産品は、日本の外で、高い評価を得ているではないですか。グローバル、せめて全日本まで視野に入れないと、地産地消は、おそらくは、規模がでずに、採算も取れず、つまり市場原理にのらずに、精神的な自己満足のための運動になってしまうのだと思います。


さて、話を元に戻して、金融の地産地消です。原理的に、地産地消一般論と、何も変わらない。要は、価値が問題なのです。

地域金融機関の価値とは、基本的に、地域貯蓄市場における圧倒的な強みです。地域において貯蓄過剰になるということは、貯蓄に見合う投融資機会を見出せないという弱みである以前に、投融資機会以上に貯蓄を吸収してしまうという強みなのではないでしょうか。そこに価値があるのではないでしょうか。
 強力な地域貯蓄に基盤を置く地域金融機関は、その安定資金をベースに運用ができる。日本全国はもちろん、グローバルに運用できる。つまり、競争力のある資金だから、地産地消を超えて、グローバルに展開できる。この強みは、今回の世界的金融危機の中で、外国の有力銀行が、資金調達基盤の弱さゆえに瓦解していったのを見ても、よく分かるような気がします。地域金融機関は、世界の投資家になる。これが、一つの方向です。いうまでなく、投資収益は、貯蓄の所在する地域へ還流していく。
 もう一つは、当たり前のことですが、実業の裏にある金融機能です。地域の実業としての地産地消が、地域を越え、日本を越えて、グローバル展開していくならば、その展開に連れ添って、単に連れ添うだけではなく、むしろ実業をリードしながら、金融機能もグローバル展開していかなければならない。地域金融機関は、世界の投資銀行(本来の投資銀行、実業を金融面でサポートする機能という意味での投資銀行)になる。
 地産地消とは、自給自足的な地域への閉じこもりではなく、究極的にはグローバル化なのだ、という逆説が真実です。地域金融機関は、地域内の閉鎖的な金融機関ではなくて、グローバルな投資家であり、グローバルな視野をもった地域投資銀行である。これが、逆説的真実であると信じます。
信じるだけではありません。弊社は、金融の地産地消について、思想を同じくする地域共創ネットワーク(代表坂本忠弘氏)主催の「未来航海フォーラム」を共催しています。昨年9月8日開催したときのテーマは、「地域金融機関は世界の投資家になれるか」でした。今年10月16日開催予定のもののテーマは、「地域金融機関は地域の投資銀行になれるか」です。
 いま、地域の時代、確かな手応えを感じています。10月16日、ぜひ、ご参加ください。

以上

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