投資から投機を駆逐するために

投資から投機を駆逐するために

森本紀行
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個人貯蓄の構造を預貯金中心から投資信託中心に変えていくことは、金融庁の最重点施策なのですが、金融庁は投資ではなくて資産形成という用語を使用しています。それは、金融庁の政策課題に即して、個人の投資の目的として老後生活資金形成を強調するためですが、おそらくは、投資に付きまとう投機的要素を排除するためでもあるでしょう。

 投資という言葉は、多様な使われ方をされてはいても、何らかの将来価値のあるものに資金を投じ、長い時間をかけて実現していく価値から資金を回収するという意味をもつことは、設備投資にしろ、人材投資にしろ、共通しています。そして、投じられた資金が回収されたとき、即ち戻ってきたとき、英語でいえばリターンしてきたとき、投資額よりも大きくなっていると期待されていることも共通していて、その増分が投資の利益という意味でリターンといわれるのです。
 この投資の本質は債券や株式に投資するときも全く同じであって、投じられた資金は、債券においては、満期までのあいだに利金と元本償還によって回収され、満期のない株式においては、超長期の時間のなかで配当の累積によって回収されるものです。そして、いうまでもなく、投資のリターンとは、投資額と回収額の差分なのです。
 ところが、開かれた資本市場で取引されている株式や債券の場合には、他人に譲渡することによって、極めて短い時間で投資資金を回収できてしまいます。問題は、このような短い期間での回収も投資と呼ばれることであって、故に、投資が本質的に長期的なものであるにもかかわらず、短期の投資と区別して、敢えて長期投資といういい方がされるのです。

投資の本質が長期なら、短期のものは、投資ではないという意味で、投機と呼んだほうがいいですね。

 投資というのは、ある対象に資金を投じたとき、その対象に内在する価値が時間をかけて実現していく過程のなかで、投じられた資金が増殖していくことですから、本質的に長期のものです。ところが、資本市場で取引される株式や債券の場合には、需給関係で価格が形成されるのであって、その価格は、長期的には価値の変化を反映するにしても、短期的には価値から大きく乖離し得るのですから、短期保有で売却して利益を得ようとすることは、価値の増殖を目的とした投資ではなくて、価格変動の機微をつくことを目的とした投機なのです。
 そこで、本来の投資の意義を明確にするためには、それを端的に投資と呼び、短期的な価格変動を狙う行為は、投資ではないとして投機と呼び、投資の世界の外へ放逐したほうがいいのです。なぜなら、本来の投資を長期投資と呼んで投機と区別することは、投機も短期投資という投資の特異なあり方だと認めることになるからです。

投機を否定する必要はないのではありませんか。

 資本市場を効率的に機能させるためには、投機資金の流入は絶対に必要です。なぜなら、需給の不均衡、即ち売りと買いの需要の差が価格の変動をもたらすのですが、その不均衡が大きくなりすぎて、価格の変動幅が極端に大きくなって円滑な売買を阻害するとき、投機資金は、反対方向へ流入することで、取引を成立させます。この流動性の供給が投機の重要な社会的機能なのです。
 そして、投機は、こうして市場に貢献する限り、あくまでも、その限りにおいて、安すぎるときに買い、高すぎるときに売ることになりますから、理屈上、正しい投機は成功しやすいわけです。しかし、上がれば、なお上がると思い、下がれば、なお下がると思うなど、ありとあらゆる投機的思惑がなされるなかで、投機全体の勝率は五割を超えることはなく、取引費用分だけ確実に損失となるのです。
 つまり、投機は合法的な賭博であって、そこに経済合理性はないのです。しかし、市場に流動性を供給するという重要な役割を担っているからこそ、社会的に許容されているのであって、このことは、競輪等、全ての合法化された賭博に共通の原理です。

むしろ、一般の認識は、投機こそが投資の主流だという誤解になっていませんか。

 それは、無理もないことで、資本市場は巨額な取引量を背景に大きな社会的存在となっていて、その日々の動向が報道されるなかでは、誰しも多少の関心をもたざるを得ないわけですが、その関心が価格変動にのみ向かうことは当然なのであって、投資が価格変動を利用した利益機会の追求だと誤認されても仕方ないのです。
 こうしたなかで、本当の投資の普及を図ろうとする人は、長期投資の名のもとで、投資対象の価格変動よりも、そこに内包された価値が長期的に実現していく過程を強調するのですが、その努力が功を奏したとしても、おそらくは、一般の認識は、長期投資とは、上手な投機、あるいは長期の投機だということにとどまるのです。

投資のリスクを価格変動として説明することも、投資を投機に近づけてはいないでしょうか。

 金融庁に限らず、規制当局の一般的な傾向は、自分の明確な意思で投機を行う人については、損失も自己責任のうちですから、保護に値しないものとして関心をもたないのに対して、意図せずして投機を行ってしまう人については、それが金融機関の誘導による場合など保護に値する可能性があるため、金融機関を規制して、意思の確認をさせるというものです。
 このとき、最大の論点になるのがリスク、即ち短期的な価格変動であって、金融機関としては、規制上、リスクのあることを強調したうえで、顧客の意思を確認しなくてはならないのですが、その意思とは、投機の人については、リスクそのものが目的だということであり、投資の人については、長期的な投資目的を実現するためにはリスクは不要かつ有害だとしても、必然的に付随するものとして受け入れるほかないということです。
 さて、ここで問題は、投資目的の人に対してリスクを強調すればするほど、投資の目的が積極的に、能動的にリスクをとることであり、長期的な投資成果はリスクをとることの対価だという印象を与えることです。しかしながら、本来、投資とは、投資対象に内在する価値の長期的な実現を目的としていて、短期的な価格変動としてのリスクは、付随するが故に受け入れざるを得ないもとのとして、消極的に、受動的にとられるものなのです。

投資とはリスクをとることで、とったリスクに応じて投資成果を生むという発想は、金融庁、金融界、学会等に蔓延してはいないでしょうか。

 投資対象に内在する価値は確実に実現していくとは限らず、なかには、価値が期待したほどには増殖しなかったり、逆に毀損してしまったり、極端な場合には無価値に転じたりと、不確実性があります。その不確実性の大きさは、投資対象である企業等の活動状況のなかに示され、それに応じた投資家の売買行動に現れ、更に、その売買行動は価格変動に帰結するとすれば、不確実性の大きさは短期的な価格変動の大きさによって測定され得る、これがリスクの理論的背景です。
 こうした理論は、もちろん、間違いではありませんし、不確実性の尺度として、短期的な価格変動を用いることは、他に客観的に測定可能な指標もないことから、非常に便利なものとして、定着しているわけです。しかし、いつしか、価格変動が本源的な不確実性の尺度にすぎないことが忘れられ、価格変動としてのリスクをとることが投資の本質のようになってしまったのです。
 こうした発想の倒錯は、関係者のなかでは異常なことだと気付かれないのでしょうが、一部の心ある人が長期投資の重要性を叫び、短期的な価格変動にとらわれないように訴えたとしても、一般の常識からすれば、短期的な価格変動が長期的に投資収益を生むとは考え得ないはずで、仮に納得したとしても、長期投資とは、長期の投機だという理解になるほかありません。おそらくは、ここに投資信託の普及を妨げる最大の原因があるのです。

では、一般の人の常識に合うように投資を説明するとしたら、どうなるでしょうか。

 それは、当然に、産業活動に参画することです。そもそも、投資とは、産業活動に必要な資金を投じることであり、その活動が生みだす付加価値の一部を投資収益として回収するものです。従って、産業活動を通じて経済が名目的に成長している限り、投資は収益を生むのです。
 そのように投資をとらえ、そして、日本の現実をみるとき、国際分散投資の意義は簡単に理解されるはずです。仮に、日本の成長率に限界があるとしても、世界経済の成長余力は大きいわけで、更に、広大な世界のなかで、その経済全体の名目的成長に参画するための方法論が検討されるとき、小金額でも広範に分散可能な投資信託の利点が理解されてくるのです。

投資教育の見直しが必要でしょうか。

 投資に限らず、金融は、それ自体として、単独では存立し得ません。このことは、住宅ローンを考えれば、すぐにわかることです。住宅ローンの利用者は、金融の専門的知識をもっている必要は全くなく、自分の家計、および人生設計における住宅保有の意味を理解していればいいのです。敢えて、金融的な教育をいうのならば、対象領域は、住宅ローンの仕組みではなくて、賃貸との比較、生命保険の適切な利用等にかかわる助言です。
 この点、金融庁が資産形成という言葉を用いて投資信託の普及を図ろうとしていることは、極めて理に適っています。資産形成の主役は投資信託ではなくて、公的年金給付を補完して豊かな老後生活を送るための生活設計なのです。投資信託は、それを実現するための手段にすぎません。教育をいうのならば、投資信託の技術的なことではなくて、老後生活の思い描き方のほうが重要です。

老後2000万円報告書にも、そうした示唆がありましたね。

 幸か不幸か政治問題化して有名になった例の報告書には、「今後は自らがどのようなライフプランを想定するのか、そのライフプランに伴う収支や資産はどの程度になるのか、個々人は自分自身の状況を「見える化」した上で対応を考えていく必要があるといえる」と書いてあります。他方で、金融庁は、投資信託の質の「見える化」という技術的な施策も展開していますが、こちらの老後生活の「見える化」のほうが何倍も重要です。

老後の「見える化」は、未来社会の「見える化」でもありますね。

 投資の長期的成果を規定するものは、現在から未来へかけての産業構造の変化です。その変化について自分がもっている像と、若年から老後へかけての自分の生活構造の変化を適合させることが資産形成の本質です。ここには、もちろん、多くの技術的なことが関係しますが、それらについては、国民は専門的知見をもつ必要は全くなく、金融機関の責任のもとで適切に提供されればいいことです。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2019/04/18掲載「投資が預金と同じくらい普通になるために
2019/04/04掲載「投資は狂気だ、資産形成は理性だ
2018/08/30掲載「投資信託は何の役にたつのだ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。