なぜ宝くじの広告は許されるのか

なぜ宝くじの広告は許されるのか

森本紀行
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電車の中吊りやテレビの宣伝などに氾濫していた、あの宝くじの広告、なぜ、あのような射倖心を煽る派手な広告が社会的に許されていたのか。金融商品の広告ならば、確実に違法となるはずの表現が堂々と踊っていたのは、なぜか。それが、現在では、穏健な表現に転じたのは、なぜか。潜在的批判を意識したものなのか。

 
 まず、根本的な事実として、宝くじの発売は、富くじに関する「刑法」第百八十七条の規定により、立派な犯罪なのです。その犯罪が堂々と行われている理由は、別に「当せん金付証票法」という法律があるからです。これは、「刑法」第三十五条によって、「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」としていることによります。
 ただし、「当せん金付証票法」第四条により、宝くじの発売は、地方自治体に限られ、かつ、第一条の法律の目的により、「地方財政資金の調達に資することを目的とする」ものとされています。
 

本来は犯罪であるものが、法律で非犯罪化されているのは、競馬と同じですね。

 
 競馬は、「刑法」第百八十五条の賭博罪に該当し、立派な犯罪です。ところが、「競馬法」第一条により、「日本中央競馬会又は都道府県は、この法律により、競馬を行なうことができる」とされていて、合法化されています。これも、「刑法」第三十五条の適用によるのです。
 

富くじにしても、賭博にしても、一般に、射倖契約は、刑法に抵触するのでしょうか。

 
 いまどき、射倖という日本語の意味のわかる人は、ほとんどいないでしょうが、射倖契約というのは、偶然の利益を得ることを目的とした契約のことです。その構造は、偶然の事象の生起に関し、契約当事者の一方が、他方に対して、あらかじめ定めた給付の履行義務を負うものです。
 例えば、骰子の目が偶数ならば、AがBに対して、100円を支払うという約定が、基本的な射倖契約ですが、これは、明瞭に骰子賭博です。こうして、射倖契約は、基本的に、賭博や富くじなど、刑法に抵触します。
 刑法のなかで射倖契約を犯罪化するのは、法政策や刑事政策の問題であって、ある種の道徳感情や社会秩序の維持、また、経済的破綻者の増加に伴う窃盗等の犯罪の発生を未然に阻止する目的等を、総合的に勘案した結果なのでしょう。
 

ならば、同じ法政策の問題として、一部の射倖契約の非犯罪化もあり得るわけですね。

 
 上記の契約構造を満たせば射倖契約ですから、死亡を含めた事故の不確実性についての保険契約、債務不履行の不確実性についての保証契約、金融商品等の価格変動の不確実性についてのオプション契約など、今日の経済金融取引のなかで重要な機能を演じているものも、契約構造上は、賭博と同様な射倖契約ではあるのです。
 ただし、当然ですが、これらの金融取引については、社会的な必要性が認められていて、様々な関連法令によって根拠が定められていることから、「刑法」第三十五条によって、非犯罪化されています。
 同様に、宝くじや、競馬等の公営賭博も、その社会的効用が認められているからこそ、その効用の実現という目的に沿った法律の制定が行われて、法政策的に、非犯罪化されているのです。
 

では、宝くじを非犯罪化している背景は何でしょうか。

 
 「当せん金付証票法」の立法の主旨に明らかなように、地方自治体の資金調達の手段という公益性です。資金調達手段として、宝くじの射倖性が利用されているのであって、保険等の金融取引のように、宝くじの射倖性自体に、社会的価値が認められているわけではないと思われます。
 

競馬も、地方自治体に開催が認められていますが、資金調達の目的ではないようですが。

 
 競馬の場合は、日本中央競馬会の「経営の基本方針」にもみられるように、「歴史と伝統のある競馬」、「国際的なスポーツエンターテインメントとしての競馬」を通じて、「夢と感動を皆様にお届け」するものという位置づけですから、文化的に確立した娯楽として、賭博の例外の地位が法律的に付与されたものでしょう。
 もちろん、「競馬法」第二十三条の九は、「都道府県は、その行う競馬の収益をもって、畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興及び災害の復旧のための施策を行うのに必要な経費の財源に充てるよう努めるものとする」としていますが、これは、競馬の主目的ではなくて、付随目的です。
 それに対して、「当せん金付証票法」は、宝くじの目的を、地方自治体の資金調達の手段としているのであって、競馬とは、大きく異なっています。
 

しかし、宝くじというか、富くじは、長い歴史をもっていて、庶民に「夢」を届けるものとして、文化的に確立したものではないでしょうか。

 
 それは、そのとおりで、宝くじが国民に受け入れられているのでなければ、そもそも、地方自治体の資金調達の方法として、利用すること自体ができないはずです。しかし、法律は、宝くじに、競馬のような文化的な背景を認めて、それを保護しようとしたものではなくて、あくまでも、地方自治体の資金調達の道具としての機能を認めたにすぎないようです。
 

資金調達とはいっても、地方自治体としては、弁済の義務のないものですから、これは、一種の寄付ですね。

 
 そうです。宝くじを買うということは、地方自治体に寄付することです。地方自治体への寄付という要素があるからこそ、宝くじは、公共性をもち、公共性があるからこそ、「刑法」第百八十七条に規定する富くじであるにもかかわらず、「当せん金付証票法」によって、非犯罪化されているというわけです。
 実際、「宝くじ公式サイト」にある「収益金の使い道と社会貢献広報」をみますと、「宝くじは、販売総額のうち、賞金や経費などを除いた約40%が収益金として、発売元の全国都道府県及び全指定都市へ納められ、高齢化少子化対策、防災対策、公園整備、教育及び社会福祉施設の建設改修などに使われています」ということになっています。
 これに対して、賞金として分配されるのは、約47%です。その余は、経費等です。つまり、宝くじを1万円購入するということは、1300円が経費で消え、4000円が寄付され、4700円が期待収益ゼロの純然たる賭けに投じられるということです。
 

期待収益ゼロの賭けとは、どういう意味でしょうか。

 
 骰子の丁半賭博と同じで、勝率50%ということです。勝率50%ということは、賭けの期待収益はゼロです。もっとも、宝くじの場合は、賞金額に本数の加重をかけた期待収益がゼロということですが。
 いずれにしても、賭けの本質的部分において、期待収益がゼロということは、賭けの主催者の取り分だけ、期待収益はマイナスになるということです。宝くじの場合、賭けの主催者は、経費に加えて、大きな寄付金を徴収しますので、期待収益は、マイナス53%になるのです。
 宝くじも競馬も、純粋たる射倖契約としては、期待収益ゼロになるわけですから、主催者取り分だけマイナスの期待収益になるのは、自明です。ただし、競馬には、中央競馬会がいうように、「レースの迫力、馬の美しさ、推理の楽しみが一体となった競馬の魅力」があるのであって、期待収益のマイナスには、当然に、楽しみの対価も含まれるわけでしょう。
 では、宝くじは、どうか。宝くじには、競馬のような魅力はなさそうですが、寄付という公共性はあります。その公共性こそが、宝くじを成り立たせる根拠でなければならないはずです。少なくとも、理屈上は、あるいは法律の建付け上は、そうです。
 

そうしますと、本来は、宝くじの募集は、正面から公共性を掲げて、寄付への理解を求めるものでなければならなかったということでしょうか。

 
 しかし、それでは、宝くじの売れ行きは伸びないかもしれません。宝くじの売れ行きが悪くなれば、資金調達としての機能は弱くなる。宝くじの機能を維持するためには、工夫と努力によって、宝くじを積極的に販売しなければならない。そのためには、国民の射倖心を煽るほかない。
 こうして、これまでは、宝くじの派手な広告が展開されてきたのです。射倖心を煽る広告のなかでは、宝くじの本来の機能である地方自治体への寄付的要素は、完全に消滅してしまっていたわけで、宝くじを非犯罪化した法政策的な目的との関連では、問題なしとしない状況にあったと思われるのです。
 故に、広告のあり方が見直され、最近では、射倖心を煽る要素を少なくし、同時に、宝くじの社会貢献を世に知らせる方向へ、路線が修正されたのです。
 

公共性だけでは、宝くじは売れないのではないですか。

 
 「宝くじ公式サイト」によれば、宝くじ購入動機の調査では、動機の上位は、「賞金目当て」(63.8%)、「宝くじには大きな夢があるから」(44.7%)、「遊びのつもりで」(36.7%)、「当たっても当たらなくても楽しめるから」(33.4%)となっています。
 主な動機は、経済合理性を超越した「夢」への期待と、競馬のような娯楽性であって、寄付の公共性ではないのです。こうした状況のなかで、法令で高度に規制された金融商品の広告のように、宝くじ1万円の購入について、1300円の経費等、4000円の寄付、4700円の賭けという明細、および、賭けの期待収益がゼロであることを大きく表示したら、それでもなお、宝くじは売れるものでしょうか。
 それでも、売れるとしたら、日本人の非合理的な「夢」への期待も、たいしたものです。
 

逆に、もしも、一気に売れなくなるとしたら、それは、一種の経済合理的計算が働くからですね。

 
 というよりも、あからさまにいって、「夢」を打壊す興ざめな施策の効果でしょう。しかし、もしも、本当に、合理性と公共性を前面に出した結果として、あるいは「夢」を壊した結果として、宝くじが売れなくなったら、これまでの宝くじの販売政策は、一体、何だったのだ、国民の目を晦ましていたのか、ということにもなりかねません。
 いずれにしても、寄付の公共性だけでは、宝くじが売れないのは、購入動機調査の結果からみて、間違いないでしょう。
 

宝くじが売れなくなったら、地方自治体は、一つの財源を失うことになりますね。

 
 現在の宝くじというのは、一方に、経済合理性をはるかに超えたところで、「夢」に満足している多くの国民がいて、他方に、それを巧みに利用して資金調達をしている地方自治体がいることで、それなりに、うまく辻褄が合っているのです。そこを、無理に「夢」を破壊しても、誰の利益にもならないということなのでしょう。
 従って、宝くじの広告のあり方については、過度に射倖的な要素は改めたにしても、合理性と公共性を前面に出すことには、著しく慎重なのです。どうしても、前で、「夢」をばら撒いて、後ろで、お金を集めるという構図は、大きくは変えようがないようです。
 もっとも、非合理的な射倖性に国民の人気があること自体、本当に、それでいいのかという感じがしないわけでもありませんが。
 

日本の将来を考えると、やはり、国民の合理的思考力を高める方向へ、政策的な工夫をしていかないといけないということですか。

 
 寄付は、寄付として、お金を集めるのが本来のあり方であって、射倖心で集めるのは、邪道です。寄付が、寄付として、国民の理解のもとで集まるためには、寄付対象の事業に納得性と合理性がないといけないのに対して、射倖心で集めた寄付が何に使われても、国民としての関心は及ばない。そこが、一番、いけないところです。
 また、金融取引で、保険等の射倖契約が認められるのは、そこに社会的必要性があるからです。ところが、法律上、金融だからという理由で行われている射倖契約のなかには、FXのように、射倖性自体が目的となったものもあります。これは、射倖的金融取引を認めた主旨の逸脱ではないでしょうか。
 原点に戻り、射倖契約は犯罪であること、その非犯罪化は社会的必要性に基づくことを考えるとき、単に形式的に合法であるだけで、射倖性自体を目的とする射倖契約は、少なくとも、積極的に広告宣伝すべきものでないことは明らかでしょう。
 
 
以上


 
 次回更新は3月19日(木)になります。
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。