企業年金資産を積立てる意味とIFRS

森本紀行
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企業が負担する債務の中で、弁済できない債務というものは、考えにくいのですが、実は、年金退職金にかかわる債務(会計の用語を使えば、退職給付債務)は、そのような弁済できない特殊な債務です。

 他にも、退職給付債務は、通常の債務と大きく異なる特殊な性格をもっています。そもそも、債務額そのものが、不確定です。例えば、退職金は、通常、勤続年数に応じた支給係数をもつのですが、従業員の勤続年数は、事前には、わかり得ません。会計年度末に、もしも、全員が退職したらいくらになるか、という意味での退職金債務額(いわゆる期末要支給額)は、正確に計算できます。しかし、「会計年度末に、もしも、全員が退職したら」などという仮定は、著しく非現実的です。
 企業会計原則は、ゴーイング・コンサーン(継続企業)を前提にしているのに対して、期末要支給額の考え方は、企業を清算したときの債務額を意味するにすぎないので、理論的に整合しないのです。ゴーイング・コンサーンを前提にする限りは、雇用の継続を前提にし、現行の年金退職金制度の継続を前提にすることになるので、その前提の下で、何らかの方法で将来債務を推計するしかない、ということになります。もっとも、「将来債務」といういい方は、不正確かもしれませんね。将来時点での債務ではなくて、あくまでも、将来にわたる雇用と制度の継続を前提にして推計された、「現時点での債務」、ということです。
 この債務の推計の問題は、一見、明らかなように、高度に技術的な問題を含みます。過去、非常に長期にわたる検討が行われ、その検討結果が、会計実務に導入されてきたわけですが、所詮、確定的な正解のあり得ないことですから、尽きることもなく、技術的精緻化が進行せざるを得ないのです。現に、いまも、退職給付会計基準の重要な変更が、議論されているわけであります。

しかし、今回は、債務の推計のことではなくて、もっと本質的なこと、債務の弁済不可能性のことを、書こうと思っていたのでした。

実は、弁済ができないということも、年金退職金制度の継続の前提から、当然に帰結することです。制度が継続する限り、債務は、継続的に、追加発生し、増殖し、部分消滅していきます。債務総額は、基本的に大きく変動することなく(あるいは、多くの場合、緩やかに増大しつつ)、未払いのまま、残り続けるのです。
 債務が未払いのまま残り続ける、これは問題です。少なくとも、二つの重大な問題があります。第一に、年金退職金債務は、報酬の後払い的性格を帯びるものなので、労働債権としての保全が図られなければならない、ということです。しかし、単純に企業債務として認識されているだけでは、実質的な保全は、図られ得ません。第二に、企業財務の立場からは、長期固定債務に分類される退職給付債務が、貸借対照表に削減し得ない形で載り続けることは、財務管理上、好ましくない場合が多いのです。
 そこで、積立てです。債務に相当する資産を積立てることで、資産によって債務を担保すると同時に、資産と債務を相殺させて実質的な債務弁済効果を実現するのです。これで、二つの問題が解決できる。ここに、企業年金資産が発生する根拠があるのです。この原点を押さえないでは、企業年金の資産運用は、成り立ち得ないのであります。
 ところで、積立制度の背景には、もう一つ重要な要因があります。税制の優遇措置です。企業年金制度は、労働債権の保全と、老後生活保障の二つの側面で、社会福祉政策の見地からも、重要な意味をもちます。そこで、税制について、積立てに回す掛金の損金算入と、積立資産にかかわる収益の非課税取り扱いという、二つの優遇措置が講じられているのです。この税制優遇措置が、大きなインセンティブとなって、企業年金の積立てを促進してきたことは、まちがいありません。

さて、こうして、積立制度が普及してくると、そのこと自体が、当初の想定を越えた問題、あるいは副産物的な問題を、誘発してくるのです。

この辺の事情は、直近の三回のコラム「企業の競争力、人的資本、企業年金、そしてIFRS」、「企業年金の「長期運用」と経営の時間軸」、「企業年金の積立不足」で指摘してありますので、ご参照ください。要は、退職給付債務は、債務額(グロス)から資産額を控除した実額(ネット)で定義される、別のいい方をすれば、積立資産分だけ弁済されたと看做されるということが、資産の評価額の変動という、新しい不確定要因を生んでしまうということです。
 改めて、本来の積立目的に遡って、三つの視点から、論点を整理してみましょう。第一に、法律上の権利保全の視点、第二に、会計上の債務額定義の視点、第三に、経済的な資産運用の付加価値の視点、この三つです。
 まず、法律上の視点とは、年金資産は、年金退職金債務の担保としての性格をもつということです。この視点からは、資産価値は、常時、債務額を上回っていなければならない、ということになります。もしも、通常の担保についての一般論が当てはまるならば、資産額は、担保掛目相当分だけ、債務額を上回っていることが要求されます。資産額が要求担保評価額を下回る状態が、一定期間以上継続すれば、追加担保(即ち新規掛金の投入)が求められるということです。ただし、債務評価額は、必ずしも、ゴーング・コンサーン基準であることまでは、要求し得ないのでしょう。担保が発動するときは、制度が非継続になるときだからです。通常は、非継続基準の債務額は、継続基準よりも小さいので、担保掛目を考えたとしても、継続基準の債務程度の資産を保有していれば、法律上の担保的意味は、充足される場合が、多いのではないでしょうか。
 なお、政策的に、支払い保証制度や、公的に債務(同時に資産も)を継承する制度などを導入すると、企業年金資産に求められる社会的役割は変化するだろう、ということにも注意がいります。また、担保の一般原則の問題として、担保資産の企業による処分が認められない(企業からの資産分離)一方で、その使用収益に制限を設け得ないこと(資産運用の自由)も、蛇足ながら、付け加えておきたいと思います。
 第二に、会計上の論点とは、資産額が減少すれば、その減少分だけ、弁済されたはずの債務が復活してしまう、という問題です。この点は、先に挙げた過去の三回のコラムで論じているので、繰り返しません。
 もちろん、会計の安定性としては、債務が、積立てという実質弁済にもかかわらず、常に復活する可能性を残すことは、望ましくありません。理想的には、積立てによって確定的に債務を消したい。そのためには、債務変動と資産変動の完全な連動性を実現したい。これもまた、重要な資産運用の課題であることには、間違いありません。しかし、もう一つの視点がある。
 最後の、そして一番重要な視点は、経済的な資産運用の付加価値の問題です。これは、簡単です。資産運用の前提では、資産が減るのは一時的な事態に過ぎず、長期的には、資産は増殖することになっているという、このいわずもがなのことです。資産額の伸びが債務額の伸びを上回る分だけ、年金退職金費用は削減されるという、この積極面は、決して忘れてはならないことなのです。

会計の視点が強調されるにつれて、経済の視点は、劣勢になっている感があります。しかしながら、歴史的には、企業年金の資産運用は、年金退職金費用の実質的な削減を、会計的な費用の固定化ではなくて、実質的な削減を、目標としてきたのです。

 会計の視点の下でも、この資産運用の付加価値の問題は、理論的には、何ら変わり得ないはずです。会計上、債務評価に使う割引率は、企業にとって調達可能な長期金利を基準にしています。この「企業にとって調達可能な長期金利」を、資産運用の収益が上回ることは、資産運用がビジネスとして成立するための基本要件であるのみならず、企業経営にとっても、経営の付加価値が、「企業にとって調達可能な長期金利」を上回ることは、企業の存立要件でもあるのです。ですから、年金の資産運用において、運用の付加価値、即ち費用削減の可能性を放棄することは、経営理論的には、あり得ないことなのだし、事実、そのように信じてこられたのです。
 それなのに、なぜ、今日、会計の視点と経済の視点は、矛盾する、あるいは矛盾するように見える、のでしょうか。最大の要因は、いうまでもなく、時間軸のずれでしょう。資産運用の付加価値は、複数年度の平均として実現するのに対して、会計は単年度毎に確定させるからです。もっと本質に遡れば、おそらくは、市場均衡理論の現実への適用の妥当性が問題なのです。
 もしも、資産価格が、瞬時に、全ての情報を織り込んで、均衡値へ収束していくならば、特定時点での長期金利で債務を評価し、その長期金利を前提として価格形成されている資産を時価評価し、その差分を認識することは、理にかなっているといえます。しかし、これは、極めて非現実的な仮定です。実際には、資産価格は、常時、不均衡な価格形成の下におかれています。その不均衡を前提にして、資産運用ビジネス(いわゆるアクティブ運用ですね)が、成り立っているのですから、この完全均衡の仮定は、全くもって、理論矛盾だといわざるを得ません。

昨年の9月から年末にかけての資産価格について、市場価格を信じよ、といわれても、実務の現場感覚として、とても許容できるものではありませんでした。

むしろ、市場が機能しない中で、デタラメに近い価格がついた、というのが実感です。国際財務報告基準(IFRS、国際会計基準)では、割引率は、評価時の、その一点での金利を使うことになっています。市場均衡理論に基づく、会計理論の一段の精緻化だといえます。しかし、なぜなのでしょう。市場システムの脆さ、危うさを、目の当たりにした今、なぜ、市場の完全性を前提にした精緻化なのでしょう。
 もしも、非現実的な市場仮説に立脚する精緻な会計理論の下で、現実的な市場変動に直面する資産運用が制約されていくならば、おかしなことです。ましてや、その極端な帰結(私は、その可能性すら認め得ませんが)として、年金の積立制度そのものが否定されるならば、税制の優遇措置を講じて積立を奨励してきた社会政策とも矛盾します。あり得てはならないことだと思います。
 原点に返り、企業における年金退職金制度の企業経営における重要な意義(前回コラム「企業の競争力、人的資本、企業年金、そしてIFRS」を、ぜひぜひ、お読みください)、積立制度の目的、市場均衡理論の妥当性、その他全ての根本的原理にまで遡ってから、改めて、会計のあるべき姿を再検討して欲しいものだと、思います。

以上

次回更新は10/8(木)になります。

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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。